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日本スゴイ論を超えた本質的な日本の凄さとは

テレビで見たことがある「日本人のここがスゴイ」といった番組。
あまりよく知らないのだがテレビ以外にもあるらしくて、日本スゴイ論というそうだ。週刊ダイヤモンドに「ちまたでよく目にする」と書いてあったからそうなんだろう。

実は個人的には、日本スゴイ論が日本をより悪くしなければいいなと、かなり冷めた目で見ている。なぜ日本スゴイ論がヤバいのか、日本の本当の凄さとは何なのか、書いてみる。


日本スゴイ論はなぜヤバいのか

日本が30年間まったく経済成長せず、相対的に貧しくなり、先進国から滑り落ちかねないタイミングでのこの流行。
やはり週刊ダイヤモンドが、太平洋戦争に突入した前後に、「日本は神の国」「日本スゴイ論」が洪水のようにプロパガンダとして流された、と書いている。

なぜヤバいか。一言で言えば、現実逃避だからだ。今の日本は、経済が落ち目で国際社会での存在感が低下、社会の分断、格差拡大、少子化、高齢化、医療費増大、孤独死などなど、国内もさまざまな問題が山積みである。

変革が必要なのは明らかだが、いやいや、なんだかんだ日本はまだまだすごいから大丈夫。なんて幻想に浸っている場合ではないのだ。

よく例に出される、財布を落としても返ってくるという話。もてなす心に象徴されるサービスの質の高さなども、たしかに一面の真実ではある。

でも、悲しいかな底が浅い。表面だけしか見ていない。どうしてそういう現象が現れるのか大元を探ろうとせず、本質がないがしろにされているように思えてならない。

たしかに日本は本当に凄い国だ。人間の精神性の進化という点で、世界一進んでいる国であることは間違いないと断言できる。

しかし、その本質な意味を知れば、決して喜んでなどいられないはずだ。むしろ、現在の体たらくを省みれば、どんな財物より素晴らしい宝を遺してくれた祖先に対して申し訳が立たないと感じなくては嘘だろう。

日本の本当の凄さとは

では、日本の素晴らしさの大元はなんだろうか。

それは、カミを感じる感受性の力だ。カミといっても、神や仏など人間が作り出した単なる観念ではない。

川の上流を川上(かみ)というように、生命の根源として生命を生み出している実在の働きを、美しく雄大な自然の背後に感じ取る力のことである。

その性質はスピリチュアル的にいうなら、無条件の愛だ。
その愛を日々間近に実感して生きていたらどうなるか。

当然、精神性が高まり、思いやりややさしさに満ちた人間になるだろう。
人徳が涵養され、器の大きい人物が生まれる。
人として境地が高まり、悟りに近づくと言ってもよい。
生まれ変わりを繰り返しながら魂が磨かれるという言い方もできよう。
段階に差はあるが、みな同じことを言っている。

人間としてこのように精神性を高めて生きることは、究極的な目的の一つである。と言って、つらく苦しい修行を続けるとか過酷な要求をされるわけでもない。

明治生まれの数学者岡潔が「そうしておればよい」日本の暮らしと言っている。

「そうしておればよい」とは、日本人として毎日にこにこと普通に暮らしていれば、自然に内面が磨かれるということだ。

日本語という言葉、農作業や職人仕事、家事などの仕事、着る物、住居、食べることなど、生活の全てが心の成長の役に立つのである(あったというべきか)。

「本当に凄い。。」と感嘆せずにはおられない。これが日本の本当の凄さである。

素晴らしい日本の復活はあるのか

残念なことに、日本語以外の精神性を育んだ日本の暮らしは、敗戦後の80年でほぼ壊されてしまった。

しかし、希望はある。絶対に。
私たちが日本語を話す限り、そして、日本の大地に住み、日本人の血を受け継ぐ限り。

日本語の「チ」には、継続するという思念が宿る。大地(ち)、血も、つながりや受け継がれていくことを表している。

記憶の澱に埋もれたその断片をつなぎ合わせ、日本の精神性復興を成し遂げたいと思っている。

こう書くとちょっと力が入りすぎで、本音では名もなき捨て石となれれば、こんなに嬉しいことはない。日本人の心根とは本来そういうものなのである。

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