【石川県】蓮如の里を歩く・前編|鹿島の森(2024/06/03)
道の駅ができたおかげで名勝・史跡などを知る場合があります。今回も『道の駅 蓮如の里あわら』を初めて訪れてみて、とても良い経験ができました!
あまりに写真が多いので、前後編に分けてお送りします。
道の駅に掲示されていた『吉崎お散歩マップ』。見どころがたくさん!北潟湖(きたがたこ)遊覧船は「令和5年夏ごろ営業予定」と書いてあるけど、パンフレットとか置いてなかった。
ネットで検索したところ、以下がヒットしました。
・北潟湖畔公園・サイクリングパーク(ボート)
遊覧船は、まだ就航してないのかな?
『道の駅 蓮如の里あわら』は、2023年4月にオープンしました。スッキリとしたデザインの道の駅です。物産館とレストランがあります。
駐車場の片隅にホットドックやソフトクリームなどの軽食屋さんと、自販機コーナーがあります。珍しいスナック菓子の自動販売機も!
道の駅に面した駐車場が満車の時は、近くに未舗装ではありますが臨時駐車場もあります。合計で普通車123台。
蓮如(れんにょ)上人は「浄土真宗中興の祖」といわれる、室町時代の僧侶です。
こちらの建物は蓮如上人に関係するものかと思いきや、まさかのカフェ! 近隣の、どの建物よりも大きくて立派です。
・イクスカフェ 吉崎鳳凰閣(eX cafe Yoshizaki Phoenix Hall)
公式インスタグラム見たらメニューが豊富で盛り付けも映える写真ばかりで、そそられる〜。
イクスカフェの隣、明らかに見劣りする簡素で小さなこちらの建物が『蓮如上人記念館』。
この写真は、6/2(日)に撮りました。到着したのが16時頃だったので、翌日ゆっくり散策しようと思っていて、こちらも明日にしようと見送ったのです。が、公共施設って月曜休館が多いことを忘れておりました。しくじった。
しかし今、こちら↑のサイトを見たら「火曜日休館」って書いてある。なんで3日(月)は休みだったんだろう。
少し戻って、道の駅と国道305号線を挟んだ向かい側に広がる渚公園内に蓮如上人の像があり、看板には以下のように書かれていました。
蓮如上人記念館でお求めになった「仕合せの蓮如札」に申込者の氏名と、佛様にお伝えしたいことを記入してください
ミュージアム庭園の蓮如上人像の御足を触って合掌、礼拝
佛様に感謝しつつ、家族、恋人、友人との幸福を願い、「仕合せの蓮如札」を蓮如上人像前から「光明の池」を目指して流します。「南無阿弥陀佛」と称える事も忘れずに
まだ工事中のせいか、水は出ていませんでした。
写真:右下はトイレ。芝生が敷かれ、整然としています。
公園の眼前には北潟湖が広がっています。福井県あわら市と石川県加賀市にまたがる汽水湖で、越前加賀海岸国定公園の一部であり、環境省の『重要湿地500』に選定されています。
対岸に見える、こんもりとした森。これが気になって気になって。
道の駅に戻って観光パンフレットを見てみたら「鹿島の森」と書いてありました。距離的にも歩いて行けそうです。
むしろ大型キャンピングカーだと駐車できるかどうかも分からないので、徒歩が確実。
翌3日、リュックにタオルとお水を持って散策へ出発。月曜日だけあって、観光客はほとんど見かけないし歩いている人もいません。
『越前加賀県境の館』も休館。って、今ウェブサイトを確認したら「火曜日休館」って書いてある?!
このとき10:50だから会館前でもないはずなのに。『蓮如上人記念館』と同じところが運営してるようです。
『県境の館』に掲示されてあったルートマップを見ながら、鹿島の森への道順を確認。すっごい近いんだけど、方向オンチだからね…。
『県境の館』の裏手から鹿島の森を撮影していたら、ちょうど鵜が羽を乾かしてるところが見えた。ベストポジション独り占め。
住宅街をカクカクと通り抜け県道117号線に出ると「鹿島の森←」の標識が。真っ直ぐ行くと塩谷海岸。
写真:右下=けっこう広い駐車場がありました。これならキャンピングカーでも停められますね。
写真:右上=駐車場にはトイレがあります。和式でした。
鹿島の森は越前加賀海岸国定公園特別保護地区で、国の天然記念物にも指定されています。
標高30m、周囲600m、総面積は約3ha。江戸時代までは、完全に独立した島だったそうです。埋め立てられたのではなく、大聖寺川が運んできた土砂が砂州のように溜まってゆき、陸と繋がったのだとか。
現在の道路は埋め立て補強したのでしょうけど、左右に民家もあるし意外と堆積するものですね。
遊歩道入口に鳥居が立っていました。扁額には「鹿島神社」と記されています。
写真:右上の案内板
この道は鹿島の自然を楽しみながら学んでいただけるようになっています。延長約600mのコースには番号の入った解説板がありますので、それに沿って進んでください。
写真:右下(1)昔の人々
昔、日本の大半がこの森のような葉の厚い樹(常緑広葉樹)の森でした。ここからは縄文・弥生時代の土器が発見されています。昔の人々は、このような水辺の近くの森に生活し、魚貝や木の実を食べ、肥えた森を伐り拓いて農耕地に作り替えていったのです。今では、このような森は少なく貴重なものです。
さきほど駐車場にクルマが一台いたけど、車内で休憩中だったので散策に来られた訳じゃなさそう。きっと、この森には誰もいない。しかしヤブ蚊はいそうだ…。
鹿島神社といえば真っ先に茨城県の鹿島神宮が思い浮かびます。鹿島神宮から勧請したのでしょうか。
関連性が分かるサイトがないものかとネット検索したところ、ものすごく詳しく研究されている方がいました!
『福井県史』『塩屋町史』『大乗院寺社雑事記』など多数の文献を元に執筆されています。
・石川県の鹿島神社|鹿島信仰の研究
鹿島神社については後述します。
加賀地方で最も美しく、自然度の高い照葉樹林(案内板より)
鹿島の森の主役は、タブの木をはじめヤブニッケイ、ヤブツバキ、スダジイなど葉の表面がつやつやした暖かいところに生育する常緑の広葉樹です。
大昔には、このような森が平地を広く覆っていたのです。しかし今ではごくわずかに残っているだけで、3ヘクタールもの広さの森は加賀地方ではこの鹿島の森だけです。
鹿島の森は赤土でできているのだろうか? 雨などで流出するようで、多くの大木の根元はこのように少し浮いていた。
倒木の上に跨っているように見えるけど、根がしっかりと地面まで到達しています。土の流出が止めどない斜面、この倒木のお陰で成長できてるんですね。
巨木になると、このように自分を支えきれなくなってしまう。
根本には小さな穴がたくさん空いています。蝉の幼虫の穴かも知れないけど、たぶんここに生息するアカテガニの巣穴かな。
歩くたびにガサガサガサ、ざわざわざわざわ、こんなにいるとは思わなかった!
しかしすばしっこいので、なかなか写真に収められない。しばらくじっとしていると、のんびり土を食む姿が見れました。
【海のカニと山のかに】(案内板の原文まま)
この辺にいるカニはツメが赤いのでアカテガニという名前があります。主に陸で生活していますが、魚と同じようにエラで呼吸するので、いつもエラが湿っていなればならないので、水気の多い草むらの中に穴を掘って住んでいます。
卵はめすの腹部につけていて、親は海に入って卵をかえし、子は大きくなると又陸にもどってくるのです。
余談ですが、案内板などの文章をリライトするとき、読みやすいように少し変えることがあります。上の文章は、あえて原文のままにしてみました。
枝がくにゃくにゃしている木が多かったエリア。
案内板(3)変化する地形
向こう岸は福井県の見当山です。福井のこの辺の海岸は、高さ約20〜40mの砂の崖が続いていますが、日本海の荒波により少しずつ削られています。
この下の砂地は大聖寺川が運んだ土砂が堆積してできたもので、今も少しずつ延びているのです。このように今も地形は変化し続けているのです。
砂地だったんですね。それは、斜面に根付いた大木には厳しい環境だ。
何かのレクリエーションがあったのだろうか。何年前のものなのか、左の箱?は、かすんで見えない。
案内板【光は植物のいのち】より
この森は、タブノキ - ヤブニッケイ - ヒメアオキ、という順で太陽の光を遮っているので地表には光を好まないヤブラン、オモト、カラタチバナなどが生えています。
ふつう暗いところというと苔などが生えているのですが、ここはあまりにも暗いのでほとんど見かけません。
途中で道がY字に分かれていて、どっちに行ってもゴールは同じっぽかったから海に近い右側を歩いて行ったら、神社の裏側に出ました。この写真は仕切り直して、振り返って撮ったものです。
鹿島神社に到着、参拝。あまり覗き込むのは失礼と遠景のみ撮影したけど、軒下に掲げられている由緒書らしきものをアップで撮らせていただけばよかった。
鹿島神社ならば御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのみこと)ということになります。
【鹿島の森・気多神社社叢・須須神社社叢|石川県】によると、昭和60年(1985)の『石川県の文化財』には鹿島の森は「八幡社の社叢」と書かれているそうで、ますます謎だったのですが、【 石川県の鹿島神社|鹿島信仰の研究 】を読むと繋がりが分かってきました。
歴史を追っていくと、まず天台宗の霊場があったものを、大聖寺藩の初代藩主・前田利治(1618-1660)が日蓮宗の道場「万法院」に改め、七面大明神(日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神)を勧請、あわせて鹿島明神を祀った。
鹿島明神が祀られたのは前田利治(1618-1660)の時代で、蓮如(1415-1499)のずっとあと。
「蓮如上人御一行が道に迷ったときに大鹿が現れて、吉崎の御山へ導いた」という伝説から鹿島明神を勧請したと想像します。
万法院は明治9年に廃寺となり、その後、鹿島の社殿も取り壊され、八幡に合祀されました。それを昭和4年(1929)に大本教の出口日出麿が鹿島に参拝のおり神社の再建を村長に話し、翌年再建され、八幡に合祀されていた御神体と出口日出麿鎮めの霊石を祀ったということです。
(「小坂庄春日神社縁起」122頁を参照されたとのこと・石川県の鹿島神社|鹿島信仰の研究 より)
「八幡に合祀されていた御神体」って何だろう?
新たな謎が増えてしまった…。
多くを見てきたであろう、境内の巨木。根本のウロから大量のおがくずのようなものが流出していて、内部に何かが巣くっていると思われます。
表参道と呼んでいいのか、五重塔があった方の道で戻ります。分岐の近くには石灯籠がありました。
往路の際、Y字に出たら左の方へ行ってくださいね。
思った以上に興味深い鎮守の森でした。
後半「吉崎御坊跡」へ続く!
GoogleMAP
・道の駅 蓮如の里あわら〜鹿島の森
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