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【石川県】蓮如の里を歩く・後編|吉崎御坊跡(2024/06/03)

初訪問の『道の駅 蓮如の里あわら』近辺を散策してきました♪

前編はこちら↓
【石川県】蓮如の里を歩く・前編|鹿島の森(2024/06/03)

蓮如の里 吉崎 観光案内図

恥ずかしながら、蓮如(れんにょ)上人については名前に覚えがあるという程度で、まったくもって無知でした。

室町時代の僧侶で、浄土真宗 大谷本願寺住職。1415生-1499没。

親鸞(しんらん)の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

蓮如(れんにょ)- Wikipedia より
風情ある町並み

その蓮如が、ここ吉崎に赴いたのは文明3年(1471)4月。付近の河口荘(かわぐちのしょう)は経覚(きょうかく/法相宗の僧侶)の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたと云われています。

そぞろ歩きも楽しい

前編・鹿島の森から道の駅への途中、かつての賑わいを彷彿とさせる昔ながらの町並みが見られます。坊舎も多かったでしょうね。

道の駅に戻ってきました

道の駅に戻ってきました。裏手から来たので、今ごろになってレンタサイクルの存在に気づいたけど出払ってて1台もなかった。

朝から何も食べていないので、さすがにお腹が空きました!
どれにしようかな〜と思う間もなく、トップに載っていた一番人気の「おろしそば」に決定。「福井名物」と書いてあるのもポイントです。

ちなみに、ここは福井県と石川県の県境にあたります。道の駅は福井県あわら市で、鹿島の森は石川県加賀市。

レストランからの眺め

レストランの目の前は国道305号線、その向こうに渚公園。写真には写ってないけど、北潟湖と鹿島の森も見えます。

おろしそば

夏大根だからか、大根おろしがなかなか辛い。ネギもパンチが効いてる。鰹節の旨味が優しく包んでくれるのが嬉しい。
ツユも味がしっかりしてます。
蕎麦はコシがあって歯ごたえがいい。色が濃い目だから、もっと蕎麦の風味というか玄そばみたいな感じなのかなと思ったけど、そうでもなかった。

バス停の廃止

散策、再スタート。
さっきは気づかなかったけど、蓮如上人記念館前のバス停の看板に「当バス停は令和5年4月30日をもって廃止」と張り紙がしてありました。

散策ルートを考えていて、とりあえず道の駅の裏手にあたる吉崎別院から見てみようとUターン。どんなところか分からないので気の向くままに歩いてみます。

吉崎別院

案内板【吉崎御坊のご案内】より
 当、吉崎別院は通称・吉崎御坊と呼ばれ、文明3年(1471)本願寺第八代 蓮如上人によって吉崎の山上(通称「お山」)に坊舎が建てられた事を起源とするものであります。
現在のお山には、本堂跡を中心に当時を偲ぶいくつかの遺跡があり、室町中世の寺城の様子を今に残しています。このお山全域は、昭和50年(1975)2月、国の史跡に指定されました。
別院境内には本堂をはじめ蓮如上人オカタミの御影を安置する中宗堂、また、鐘楼堂、資料館などが建てられています。
なお資料館には「嫁威(おど)しの面」の物語や本光坊火中の殉死の出来事など蓮如上人に関する宝物などが展示してあります。

重厚な門構え

とても大きくて、お寺というよりお城みたいな感じです。

まるで櫓のよう

宝物館・太鼓堂の由来】案内板より
 この建築物は当別院の本堂建築に先立つ2年前(延亨2年/1745)越後下関の関三左エ門により大工小屋として建てられました。
爾来、約270年、屋上にそびえる太鼓堂は名古屋城のやぐらと同様式の建て方にて偉容を誇り、江戸時代には時計台として朝昼夕、付近の村民に親しまれました。
階下には茶所があり、参詣者の接待所として活用されました。
明治には一時期、吉崎小学校として60名の児童の学び舎にもなり、昭和になって現在の宝物拝観所として一般に無料開放されるようになりました。
昭和23年(1948)の福井地震にも崩壊せず現在に至ってます。

狭い小路

正面から登っていくのは気後れしてしまうので、右側に回り込んでみました。狭い小路が続いています。

「嫁おどし」なんて、微笑ましいのならいいけどイジメみたいなのだったら嫌だなぁ〜と思いつつ…。なんか、どっかで聞いたことあるような?

足元のテクスチャ

昔の道にこの小石を敷き詰め舗装し直したのでしょう、かつての石碑が埋もれています。

嫁おどし肉附面拝観所

「嫁おどし肉附面(にくつきのめん)拝観所」。威圧感に圧倒される。
頭の隅に、ちらっと覚えがあった「肉附の面の伝説」。たぶん「日本むかし話」で見たんだと思う。ここでのお話だったのね…。

誰もいない

誰〜もいなくて、気が進まない。怖そうだからお面を見たいとも思えない。ごめんなさい、ここはスルーしよう…。

注※「肉附の面の伝説」は教訓となる説話で恐怖を煽るものではないのでご安心ください。

肉付きの面」@福井 - 福井 - 地域|朝日新聞デジタル

史跡 吉崎御坊跡(御山)まで徒歩3分

ふと気づくと、さらに上に続く石段が。いや〜、これ登りたくないなぁと思ったけど正面の看板に「蓮如上人像(高村光雲 作)」って書いてあるではないか。それは見なくては。

年季が入ってる

階段の途中にあった案内板。ここは『中部北陸自然歩道』の一部でもあるようです。

吉崎御坊跡

この「御山」こと吉崎山の頂上ぜんぶが吉崎御坊跡。海抜約33m、広さ約2万㎡

説明板

国指定文化財(史跡)吉崎御坊跡
 本願寺第八代法主 蓮如は文明3年(1471)5月、北国に下向し、同7月に吉崎御坊を開いた。以後、文明7年(1475)に吉崎を退去するまで、この地を拠点として盛んに布教活動を行い、本願寺教団が北陸に一大領国を形成する礎をつくりました。
吉崎御坊は越前(福井県)の北端、北潟湖に突出した海抜約33mの「御山」に置かれ、開創当時は「御山」の奥に坊舎を構え、周囲に土塁をめぐらしたものと想定されています。
永正3年(1506)朝倉氏により坊舎が破却され、それ以降、坊舎は作られなかったと考えられており、現在は坊舎のあったとされる地に数個の礎石が残っているほか、山上北東部に土塁の痕跡をとどめています。
吉崎の地は、一向宗勢力の増大に伴い、寺内町一帯が要害化しましたが、後の山科本願寺、石山本願寺の造営の祖型も、この吉崎寺内町に見ることができ、その歴史的意義は大きいものです。
(あわら市教育委員会)

御山案内図

城址公園みたいな感じですね。
地図の右上、道の駅方面から上がってきて時計回りに歩きます。

見玉尼のお墓

見玉尼のお墓
 見玉尼は蓮如上人の第二女で、母は伊勢市 平貞房の娘、如了。
文安5年(1448)生まれ。7才で母を失い禅寺へやられ、のち京都吉田の浄土宗 攝受庵見秀尼の弟子となった。
文明2年、3年と続いて伯母と姉を失い、3年の5月、父・蓮如上人を慕って吉崎へ来られたが間もなく病にかかり、文明4年(1472)8月14日、26才の若さで没した。
その間に吉崎御坊の完成を見て喜び、真宗の安心を得て往生した。
上人は御文の中に「8月15日の荼毘の暁方の夢に白骨の中から金佛が現れ蝶になって涅槃の都へ飛んでゆくのが見えた」と記されている。

本光坊了顕の墓

本光坊了顕の墓
 吉崎の御山にあった多屋九房の一に、本向寺 了顕の坊舎があった。
了顕が蓮如上人につかえていた文明6年(1474)3月28日夕方、南大門付近の多屋から出火して吉崎御坊は猛火に包まれたが、上人は親鸞聖人御真筆の教行信証六巻の中信の巻を机の上に置いたまま持ち出せなかった。これを知った了顕は猛火の中へ飛び入り信巻を自らの腰に収めたまま壮烈な殉教の死を遂げたと伝えられる。

この教典は現在、京都西本願寺が所蔵しています。「腹ごもりの聖教」と呼ばれ、昭和50年(1975)に重要文化財に指定されています。

御手植御花松

御手植御花松
 蓮如上人が吉崎に御坊を建てられたときにご自分で植えられた松の木の根本であると伝えられています。
天保9年(1836)の夏のはじめ、広如上人が江戸へ行かれる途中に吉崎でお泊まりになり「吉崎の遺跡を拝し」と題して「花松の みあとを訪へば十かへりの 春にもあへる心地こそすれ」と詠まれたのは、このお手植えの松のことです。その後、元のお花松が枯れたので代替の若松を植えました。それが成長して今のお花松になったものです。

倒木ならぬ切り株更新

これは、その松ではないけれど。切り株の裂け目から、新たな幼木が芽吹いています。

「ようこそ」

蓮如上人銅像
 日本彫刻界の大家、高村光雲(1852-1934)の四大傑作の一つで、12mの台座の上に立つ像の高さは5mある。昭和9年(1934)10月に完成し、光暢上人が導師となって除幕式が行われた。

高村光雲は、この像を造って間もなく亡くなられたんですね。

蓮如上人像と彩雲

蓮如上人の頭上に、なんと彩雲が!!!
タイミングよすぎて魂消(たまげ)た。このあと、公園を回ってまたここの前に来た時も彩雲が出たんですよ。帰りにも三度出現。
吉崎を訪れたなら、ここにも是非お立ち寄りください。きっといいことあります。

破損してる?

像の周りは、かつては水が張ってあったんだと思います。この石像は龍に乗った天女なのかなと想像しますが、龍の上半身がないから天女の下半身が龍なのかも?

御本堂跡

御本堂跡
 照西寺(滋賀県多賀町)の古絵図によると、本堂は南に面し柱間五間の大きさで、中にご本尊と親鸞聖人の御影像を安置されていたが、三度の火災で焼失してしまいました。

御腰掛石

御腰掛石
 蓮如上人が御在世の当時から御坊の中にあったもので、文明6年(1474)の「吉崎山絵図」の中で上人が腰を掛けている石であろうといわれています。
その古絵図は蓮如上人が二人のお弟子を伴い本坊の後ろの石に腰をかけて、対岸の鹿島や浜坂あたりの景色をご覧になっているところです。

鹿島の森の全体は見えない

右側の玉垣の中に御腰掛石があります。現在では、鹿島の森の上部がチラッと見えるのみ。

柵のギリギリから撮影

そう言えば、あの桟橋みたいな木道に行くのを忘れてた。

今まさに花開かんとするタイザンボク

仏教に限らず宗教全般的に無知なので、何となく散策を楽しもう〜という程度で歩き始めたのですが、すっごく興味深い1日となりました。
その土地に宿るチカラというのは、あるんだなと。

「パワースポット」に代わる言葉、ないかなぁ。


GoogleMAP
道の駅 蓮如の里あわら〜吉崎御坊跡(徒歩)


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