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夜行飴。

 19時過ぎ。
 職場に仕事用のリヤカーを置き、街に出る。
 小便の臭い、何かを煮込んだような匂い、酔っ払いの笑い声と怒鳴り声が飛び交う。
 作業着のポケットに両手を突っ込んで、ねちゃねちゃした地面を踏む。
 ここは、「湿気の街」のドヤ区域。主に日雇い労働者と生活保護受給者、ホームレスが生活を営むエリアだ。
 夜になっても街の喧騒は健在のままだ。いや、夜だからこそか。
 ここでは警察組織があまり機能していないから、労働者達が好き放題稼ぎになる物を販売している。
 特に夜は、肉体労働からの開放感でせっかく得た金を散財してしまう人々が多数いる。
 道の両側には簡易宿泊所が乱立し、歩道にはブルーシートの上に怪しい商品を置いて路上販売する人々で溢れ返っている。
 僕は闇商品の路上販売や、酒のつまみになりそうな食い物の匂いを漂わす屋台を横目に、まっすぐ歩道を歩いていく。
 右手に「スーパー もぐもぐ」と赤色に光る文字ででかでかと記された、古びた建物が見えた。
 そちらへ歩いていく。
 スーパーに入る直前、出入り口の脇で硝子窓に頭頂部をくっ付けながら突っ立っている男が「俺とやろうよぉ」と情けない声で話しかけてきた。僕が阿亀を被っているから、女に見えたのだろう。
 勿論、無視して入店した。

*

 右手にスーパーで買った夕食の入ったビニール袋をぶら下げながら、静かになった夜道を歩く。
 ここら辺は、ドヤ区域の中では珍しく人が少ない。僕には騒がしくない方が性に合っている。その分、人目に付かないから悪質な犯罪も多いけど。
 足を止めた。
 古びた5階建ての建物。僕が住む簡易宿泊所だ。
 中に入ると、小さな受付がある。
 やる気のなさそうな女が、カウンター越しにこちらをちらっと見た。この簡易宿泊所で受付を行なっている20代の女だ。
「死の受付嬢」。
 常に眠そうな目、しっかりと黒い隈、かさかさの唇、細い身体、真っ白な髪。まだまだ若そうなのに今にも死にそうな見た目から、そう呼ばれている。ここの帳場さんのセフレだという噂もある。何とも悪趣味だ。
 死の受付嬢は僕の被っている阿亀を見ると、何も言わずに再び顔を下げた。
 この簡易宿泊所は、1ヶ月単位での宿泊しか受け付けていない。1ヶ月24000円。僕は12ヶ月で取っている。
 受付を出て、両側に部屋が並ぶ廊下へ向かう。
 ぷちっ、ぷちっ、ぷちっ……。
 去り際、カウンターに隠されて見えない死の受付嬢の手元から、何かを潰すような音が聞こえた。

*

 木製の廊下がまっすぐ伸びている。
 天井には裸電球が一定の間隔で設置されているが、それでもやはり薄暗い。
 僕の部屋は、1階の奥から2番目の右手にある。
 恐ろしいぐらいに静かな廊下を、ゆっくりと進む。
 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。
 これだけ慎重に歩いているのに、どうしても木の軋む音が鳴ってしまう。疲れ切った今日なんて特に。こんなに酷い日は恐らく……。
「うるせぇよ!」
 部屋から怒鳴り声が飛んできた。
 慣れっこだ。無視して前へ進むのみ。
 ちょうど廊下の中間地点、左側にはキッチン兼トイレのスペースがある。
 手洗い場には、いつものように痩せ細った男が立っていた。
 ぎょろぎょろの目を光らせ、正面の壁に設置された黴だらけの鏡を見て何やらぶつぶつと呟いている。
「い、い、い……い、い、い……いの段舐めたらあかんでぇ……」
 今日はいの段か。昨日はふの段だった。と言うか、いの段って何? あの段とかじゃなく?
「い、い、い……い、い、い……いの段舐めたらあかんでぇ……」
 半袖から伸びる彼の両腕には、無数の注射痕が残っていた。
「ぶっ殺すぞボケ!」
 部屋に入る直前、僕が暮らす部屋の隣から怒鳴り声が飛んできた。
「ああ!? 静かに歩かんかいボケ!」
 最初に浴びた怒りの声とは違う、ドスの効いた明らかにやばめなものだった。
 僕が歩く度、がんがんと内側から木製のドアを蹴飛ばしたり、殴ったりしている。
 怖い怖い。
 何とか無事に部屋の前まで辿り着き、鍵の付いていないスライド式の木製ドアを開けた。

*

 そこは5畳程の部屋。
 両脇には汚れたベッドが1つずつ。
 ドアから正面に部屋を見て右側のベッドに、壁を背にして1人の男が座っている。
 オーバーサイズの白色のTシャツを着、オーバーサイズの黒色のツイルパンツを履いた、黒色のボブヘアーの細身の彼は、中性的な顔と相まって女にしか見えない。
 同居人の「夜行性ディーラー」だ。格好付けた名前だけど、夜に闇商売をしているただの売人だ。
「あれれ」
 夜行性ディーラーが首を傾けた。
「何か……機嫌悪い?」
 長い間、同じ部屋で暮らしてるだけある。
 僕は無言でビニール袋に入った物を、夜行性ディーラーに渡した。
「今日、金曜日じゃないけど」
 中身を確認しながら、女のような柔らかい声で言った。
「いいから」
 僕は夜行性ディーラーに右手を差し出した。
「今日はもう考えたくない」
 夜行性ディーラーが微笑む。左右の笑窪が少しだけ僕の心を癒す。
「やっぱり、機嫌が悪いんだー」
 夜行性ディーラーはビニール袋を脇に置くと、枕元に置いてある黒色のリュックサックから何かを取り出した。左手で持ったそれを、僕の右掌に置く。
 濃紺色の球体。臭い言い方をすれば、夜を閉じ込めたよう。だけど、あながち間違ってはいない。それぐらい綺麗に濃紺色に染まっていた。
「行ってらっひゃい。たのひんで」
 夜行性ディーラーが口をもぐもぐさせながら言った。僕が買ってきた葡萄を口いっぱいに頬張っていた。
「夜行飴」。
 この球体の名前だ。飴と言ってもただのお菓子ではない。舐めれば分かる。すぐ分かる。
 自分のベッドに座り、被っていた阿亀を脇に置く。右手に乗った夜行飴を口に放り込んだ。
 目を瞑る。
 口の中に果実のような甘い味が広がる。舌の上で夜行飴を転がす度、甘味が増していく。
 ごく。
 溢れんばかりの唾液と混ざった、果汁のようなエキスを飲み込む。
 脳が浮遊する。
 この表現が1番しっくり来るかもしれない。ぷかぷかと心地のいい温度の液体の中で、脳が漂っている感覚。
 仕事道具であるリヤカーを日雇い労働者に蹴られたこと、商品を荒らされたこと、オーナーに賠償金を取られたこと、隣の部屋から聞こえる「お前誰だボケ!」という罵声。嫌なこと全てがどろどろと溶けて、流されていく。
 そろそろ、頃合いだ。
 がりっ。
 少し小さくなった夜行飴を奥歯で噛んだ。
 がりっ、ばりっ、ぎりっ。
 粉々になっていく。
 ごきゅ。
 木っ端微塵になった夜行飴を一気に飲み込んだ。
「大丈夫ですよ」
 柔らかい声がして、目を開く。
 目の前に、羊のお面を被った女がいた。
「……大丈夫?」
 聞き返すと、羊のお面の女が僕の顔を2つの膨らみの間に顔を埋めさせた。
 触り心地のいいワンピースと下から主張する大きめの膨らみが僕を真っ白でふわふわの世界へ誘う。
「大丈夫ですよ」
 両耳の裏側を指でなぞられる感覚に、思わず身震いした。
「大丈夫ですよ……大丈夫ですよ……」
 何度も何度も、耳の裏でさらさらした指が上下を繰り返す。強過ぎず、弱過ぎず。適度な力で、適度な速さで。
「大丈夫ですよ……大丈夫ですよ……大丈夫ですよ……」
 心地のいい舌と唾液のぬちぬちした音混じりの囁き声が、僕の耳を舐め回す。
「大丈夫ですよ……大丈夫ですよ……大丈夫ですよ……大丈夫ですよ……」
 ぞくぞくする。背筋に鳥肌が立つ。口が開く。涎が垂れる。羊のお面の女の白ワンピースがぬらぬらと濡れていく。白目を剥く。大丈夫。僕は大丈夫。大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫。
「……へへ、へへへっ」
 何も、考えられない。

*

 微睡んでいた意識が徐々にはっきりしてくる。
 僕は自分のベッドの上で天井を向いて、口を開けていた。
 真っ暗な部屋。夜行性ディーラーはもうそこにはいない。稼ぎに行っているのだろう。
 静かな5畳程の部屋で、1人涎を垂らしていた。
 深夜3時。明日も朝から仕事がある。いつもなら寝ている時間帯。
 快感が過ぎ去った後の激しい虚しさと後悔。
 夜行飴の特性として、使用後の幻覚症状はない。出来れば今は、幻覚を見ていたいぐらいに静かで、暗い空間だった。
 湿気の街のドヤ区域。目先の快感を手にする為に堕ちていった者達が辿り着くエリア。ここにあるのは、諦めと空腹。
 誰も救ってくれなんかしない。それぐらい無様で、自業自得な墜ち方だから。
 脇に置いていた阿亀が、僕の醜態を見下すように笑っていた。



【登場した湿気の街の住人】

・阿亀の男
・日雇い労働者達
・死の受付嬢
・ドヤの住人達
・夜行性ディーラー
・羊のお面の女

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