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成道会におもう由無し事

12月8日はお釈迦さまが悟りを開いた日として知られる。

もちろん旧暦ですが、12月を中国の「臘月」からとって「臘八摂心」と言われる安居が仏教寺院では行われます。修行者は坐禅三昧をして冬籠りするのですが、わたしの僧侶の友人らは在家者でも出家者でもこの時期に厳しい修行をしています。

いつもなら、外国人の友人らが日本で冬安居のために来日するのですが、今しばらくはパンデミック下で誰にも会えていません。友人らはお寺への行きや帰りに、神戸に寄ってわたしの家に何泊かして、京都や東京を経由してクリスマス前に自国に帰るという旅をしていました。

ファッションに興味がなかった学生時代、十代の終わりに初めて禅寺で坐禅を体験しましたが、そんなことは忘れ卒業して、繊維メーカーで働くようになり糸偏業界にどっぷり漬かり、ファッションの面白さや服の美しさを知り(給料はほとんど服に消えたけど)、現在は縁があって大学や美術館をベースに研究をしています。イギリスでの留学をきっかけに、ここ10年くらいは着物の研究を、その頃からまた坐禅する生活に戻り、今は袈裟を中心に考察しています。

イギリスで研修をしているときに、京都で大きな袈裟の展覧会がありました。もちろん見られなかったのですが、あとで知って悔しい反面、当時研修員をしていた美術館には、煌びやかな袈裟が飾られていて、毎日のようにそれを見つめていました。そして、その展覧会を見られなかったことで、帰国してから、道元禅師のお袈裟を求めて、管理をしている九州の博物館で嗣書と共に見せてもらうことができました。

日本に居ると、よく思い出します。フランスの寺院で、ミニチュアサイズの袈裟で曹洞宗では日常着用される絡子(らくす)と呼ばれるお袈裟を縫っていたこと。なんどもやり直しせよと言われ、ゆっくり一針一針丁寧に縫い目を確かめながら、静かに作業していました。フランスのロワール川流域にある古城が寺院や修行道場になっていて、わたしよりも包丁さばきのうまいフランス人僧侶が典座として精進料理を振舞います。

わたしの初めてのお袈裟の先生はフランス人の尼さんでした。とても背の高い人で、僧侶になる前はパリコレのモデルをしていたんだよと、友人がこっそり教えてくれました。二人目のお袈裟の先生はアルゼンチン僧侶で、岡山のお寺で手ほどきを受けました。日本人からは習わないの?という問いが出ると思うのですが、日本では法具店でお袈裟は購入できるし、檀家さんらに寄進されたりする機会も多く、自作する必要がないのと、日常の仕事で多忙過ぎることもあり、僧侶が教えて僧侶が学ぶというシステムが稀なのだと思います。

わたしは研究するだけで飽きたらず、自分で縫いたかった。そう思ったのは、お袈裟がはじめてだった。何かを確かめたかったのだとおもう。

東欧出身の尼僧の親しい友人は、わたしと同じく研究者で人類学者です。ドイツのお偉い尼僧さんが縫った曰く付きの袈裟を、日本のこれまた偉いお坊さんに手渡すために、日本に来ることになりました。エアメールで送っている間に紛失すると大変なので、飛行機に乗って手で運ぶことになったらしいのですが、とても緊張していて、手荷物にも預けられず、目に入るところに常に置いていたと話していました。目の前で見ましたが、地味な色目のものでも神々しくて、なぜか写真に撮ろうという気はその時起きませんでした。

一番最後にわたしの家に来たフランス人僧侶は、パリではメゾンで働いています。彼はコーチングの仕事をしていて世界を飛び回っているのですが、袈裟のつけ方を丁寧に教えてもらったり、一緒に(わたしは行ったことのない)シャネルのブティックへ行って、シャネルスーツの試着までしました。なんだかおかしな光景ですが、わたしが遠くへ行くと服に引き戻され、服から離れることはいつもなかったなとおもいます。

回路のようなものがあり、行ったり来たりしながら、エネルギが溜まっていて、わたしの言葉は服を読んで書いて、半分眼を閉じて坐って、運針に邁進して、地味な作業を続けて、気がついて眼を開けたら、まとまった縫い物や書き物が出来上がっている。そうやって、衣服と言語はそんなにも似ている、ところに戻るのでした。

オーストラリア人の姉弟子からもらった大事な外国のチョコレートを、わたしに差し出してくださった横浜出身の小柄な尼さんのことをよく考えます。日本の寺院で出会いましたが、いつも最後まで起きていて台所で煮炊きしていた、優しくてチャーミングな人でした。ドイツ人の尼さんとうまくいかなくて、参禅者のわたしに、間に入って通訳してくれと言われた、広島出身の禅僧の見本みたいなお坊さん。全部訳すと大喧嘩になるので、結局調整役になって、大役が終わり疲れて食べたチョコレートの欠片がなんとも美味しかったこと。

眼を閉じないのは、眠ってしまわないため。4時前には起きて身支度するため、いつも眠たくて、睡眠時間が緊張でうまく取れず、からだの節々が凝って痛くて、悪循環。坐禅は足が痛いけれど、眼を半分開けながら、瞑想状態に入るので、神経が休まってくる。わたしは坐禅している時、休息することができた。

坐禅からしばらく遠ざかっていた20代から30代の十年間、30代半ばのイギリスで不眠症になった時、母から電話で教えてもらった音叉を鳴らすことと、坐禅をまた始めることで、眠らなくても休むことを覚えた。今でもショートスリーパーですが、生きて働いている。神戸を拠点に、尊敬できる老僧に出逢えて、『正法眼蔵』の手ほどきを受けながら、時折混じる駄洒落でこころとからだを弛緩しながら。

会えなくても、眼を半分閉じれば、友人らの坐っているのが見える、半分開けているから。そうやって、回路は閉じたり開いたりを繰り返しながら、常に隙間に淡い光が差し込んで、わたしは手探りで進んでいる。生きることそのものが旅。遠くへ行かれない今、いっそう遠くの友らをおもうのだった。またいつか会えるでしょう。針と糸を持ち続けて、紙とペンも忘れないで。



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