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【小説】 超能力ノート (2)


 しかし、本が売れ始めた頃、世間を震撼させるような事件が起こった。

 5月25日、金曜日の夕方、中条教授は埼玉県所沢市にある超心理学研究所に顔を見せ、研究所の職員と共に、本が1万部売れたことを祝って乾杯をした。教授は2人の警備員にも「ぜひ一緒に」と声をかけた。その後、ビールやソフトドリンクを飲んだ全員が血を吐いて悶え苦しんだ。教授はそれを尻目にパソコンで作業した後、コピー用紙に「私がやりました。すみません」と書き、自ら毒を呷った。

 発見したのは、宅配物を届けに来た配達員で、研究所の入り口で亡くなっているスタッフを見て警察に通報したのだという。毒の種類は青酸カリで、研究所内の様子はテレビでは流せないほど凄惨なものだった。
 亡くなったのは中条教授を含む研究員5名、研究助手3名、警備員1名の計9名である。

 生存者は22歳の研究助手、28歳の警備員の2名のみ。どちらも病院に運び込まれた時は意識不明の状態で、起き上がれるようになるまでに一週間近くかかった。

「僕たちが苦しんでいる間」
 警備員は入院中に証言した。
「先生は救急車も呼ばず、ずっとパソコンをいじっていました。何をしていたのかは分かりません。普段の先生とは思えない、恐ろしいような、冷たいような感じでした。そのうち僕も意識を失ってしまいました」

 当初マスコミは、本の出版を巡り研究員の間で揉め事があったのではないかと推測したが、生き残った研究助手も、被害者の遺族も、これを否定した。

 そこで浮上したのが、超能力者がドミネーションすなわち人心略取を用いたのではないかという説である。これがあれば相手の目を見るだけで自分の意のままに操ることができる。人を殺させることも、自殺させることも可能なのだ。人心略取でなければ、強力催眠をかけたのだろう。そうでもしなければ、温厚篤実で人望の厚い中条教授が突然殺人鬼と化すわけがない。

 裕福な家に生まれた教授は、親の遺産を注ぎ込み、超心理学研究所を設立した。超能力者に寄り添い、超能力を研究するための施設である。『日本の超能力者』によると、被験者を無理やり実験台にのせて同意なしに苦痛を与えたことは一度もなく、脳波を細かく調べたり、体にショックを与えたりするハードな実験に協力するもしないも当人の自由だったらしい。これが事実だとすると、研究所に恨みを抱いた人間の犯行とは考えにくい。

 これまでに教授が接触したドミネーションの能力者は3人。そのうちの誰かが超能力者たちの個人情報を狙ったのかもしれない。しかし、3人の名前や住所を突き止める術はなく、存命中かどうかも分からなかった。教授は毒を呷る前に、研究所のメイン・コンピュータ、サブ・コンピュータ、外付けハードディスクの全てからテキストデータと映像データを消去していたのである。練馬にある自宅のパソコンには、物理学に関するデータが詰まっているだけで、超能力者に関する情報は何もなかった。

 教授が書きためていた300冊のノートも消えていた。これらも処分されたのだろうか。それとも第三者の手に渡ったのだろうか。

「研究所のデータは全て暗号で記録されていました」
 新人助手は病院のベッドの上で語った。
「先生のノートも、一度見せてもらったことがありますが、暗号だらけでした。誰かが盗んだとしても、何が書かれているか分からないと思います。私は4月に入ったばかりで、暗号についてはまだ半分くらいしか教わっていません。それは本当に難解で、覚えるまでに時間がかかります。全部覚えるまで雑用以外の仕事をすることは禁じられています。でも、早く覚えたくてもマニュアルがない。解読方法は厳しい制約のもと口伝されていました」

 しばらくして研究所のパソコンのデータが一部復旧された。
 新人助手は退院すると、早速警察に協力し、暗号解読を試みた。その結果、どうやら20年以上前の実験で超能力者として認められなかった人たちに関する情報だということが分かった。それは事件の捜査に最も不要なものだった。

 解読方法を知っている元職員がノートを盗んだのではないかという話も出たが、それはあり得なかった。この35年間、研究員2名が病死し、警備員3名が定年退職したことを除くと、減員がないのである。警備員たちは暗号を使う仕事とは無縁だった。

 新人の研究助手は、半分まで習得した解読方法を警察には教えなかった。もし、またデータが復旧したら、その時は解読に努めるが、研究所の規則を破ることになるので方法は口外できないと頑なに拒んだのだ。

 研究助手はテレビのインタビューにも応じたが、テレビ局側が約束に反して顔にモザイクをかけなかったため、素顔が世に知られた。両眼の下に目立つ黒子のある、痩せ細った女性だった。彼女は二度と取材に応じようとしなかった。

(続く)

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