見出し画像

祖父と水戸黄門

2021年 12月28日、祖父が他界した。
12月31日の大晦日、家族だけの小さなお葬式が執り行われた。

葬式は曹洞宗の流儀に沿って行われ、祖父は戒名した。
71歳まで続けた大工職人としての生と、無類の釣り好きからとった祖父らしい名前。これから四十九日、仏様の弟子入りの修行の道を歩む。

この世での生を終え、別の世界へ。頑固で我慢強い祖父のことだから、きっと修行をやり遂げて無事に成仏するに違いない。

「去り行く季節にさらわれるようにして」とセレモニースタッフが祖父の生をゆっくりと振り返り、葬儀の参列者である私たちに祖父の生前の像をよみがえらせた。

おじいちゃん、水戸黄門本当に好きだったんだよなあ、と思い出をかみしめた。よく、小学六年生の私は、公文の宿題が終わるや否やこたつに入って二人で水戸黄門を見ていた。

かの有名な「人生楽ありゃ苦もあるさ」で始まる主題歌が終わるのを黙って二人で待ち、徳川光圀が印籠を出すシーンで、「いつも展開は同じなんだよナア」と呆れたように、でも本当にうれしそうに戦闘シーンに見入る祖父との時間が好きだった。水戸黄門で学ぶことも多かったが、本当に好きなものをとことん追求する祖父の姿から人生の醍醐味を学んだような気がしていた。

中学に上がり、私の特技は、助さん、格さんのお決まりのセリフを一言一句言えることだった。

「この紋所が目に入らぬか!畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ! 一同、御老公の御前である…頭が高いっ!控えおろう!!」

とはいえ、色気づき始めた中学生たちの目の前でこんな古臭いセリフを大真面目に発してしまえば、友達ができなくなるので結局一回も披露したことはなかった。

水戸黄門は展開こそ同じだが、たまに変化球を入れてくるのもまた面白かった。助さん格さんがやられてしまうところで、飛猿や源太が助けに来る。あるいは、「水戸光圀公」と言っても信じない偉そうな代官に印籠を見せると態度が豹変してひれ伏すなど、なんだかんだいってハラハラドキドキさせられることも多かった。お銀の入浴シーンなどは、私はいつも少し赤面してちらちら祖父の表情をうかがいながら見ていた。

幼いころから、男の子が見ることが多かった戦隊モノやポケモンを欠かさず見ていた私は「女の子はこれが好き」などの社会的な前提が苦手で、色々なテレビ番組を見ていたわけだが、流石にあのころ水戸黄門を見ていた小学生はいなかった。水戸黄門について話すことができる友達こそいなかったが、むしろそれは私が祖父と二人きりで時代劇を見た時間をより特別な、濃いものとしてくれた。

私が成長するにつれて、祖父との交流も減っていった。やがて、高校生になってからは特別な機会以外は会わなくなった。それでも、たまに祖父母の家を訪れると、必ず祖父は水戸黄門を見ていた。

祖父は年をとるにつれてもともとの無口がさらに加速しほとんど家族とも口を利かなくなった。

<p>そんな祖父は、水戸黄門をどんなことを考えながら見ていたのだろう。昔はよく、孫である私と一緒に水戸黄門を見て笑いあっていたことを覚えていただろうか。私がうっかり八兵衛が出てくるたびに「また八兵衛きたよ~!」と突っ込みを入れていたこと、覚えていただろうか。

祖父の89年の人生、24年ばかりの孫との時間、祖父の中にはどう刻まれただろうか。戦中戦後の激動の時代を生き抜いてきた祖父。福島の田舎に生まれ7人兄弟の面倒を見て育った祖父は、手先が器用で、自然と触れ合うことの楽しさを、絵を描くことで表現できる自分らしさを、好きなものを追求する強さを教えてくれた。今の私が文や絵を書くこと、自然が大好きなのは祖父のおかげだ。

そんな祖父は、もうこの世にはいない。

私は、24歳にして、初めて身近な人の死を経験した。

幼少期の多くの時を過ごした祖父の訃報を聞いたとき、私はただ「どうしよう」と思った。不思議だった。自分を構成していた人々や場所がなくなる瞬間を味わった。世界の均衡が崩れた気がした。おしよせる不安と喪失感に、私の頭は混乱状態だった。

<p>だが葬式でやっと、この世での生を終えたら別の場所へ修行の旅へ出ること、祖父のこの世での旅路を思い出して、別の世界で新たな生を歩んでいくのだと感じた。古来より人々はそうして死を乗り越えてきたのだ。

あれだけ好き嫌いがはっきりしていた祖父のことだ。これからだって、祖父らしく力強く進んでいくに違いない。

「人生楽ありゃ苦もあるさ 泣くのがいやならさあ歩け」

私の頭に刻まれた祖父とのひと時、人生の指針ともなるメッセージを与えてくれた時代劇は、私の心の中にいつまでも鮮明に残り続けるに違いない。

おじいちゃん、私はおじいちゃんの孫でよかった。今までありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?