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ブレス

 夏らしい強い陽ざしに邪魔された。

 汗をべっとりかいていて気分が悪いのに、眼をこじ開ければ、窓の向こうに広がる燦然とした青と緑に心地よさも憶える。扇風機のスイッチをいじって、昨晩の寝しなに吹かしたシケモクに火をつけた。時刻はちょうど午前六時。休日に起きるには早すぎる時間だが、妙に頭がすっきりと冴えてしてしまっている。きっと横になっても仕方がないので、ぼくは咥えたばこで台所に立った。

 ドリップパックのコーヒーを大胆に注いで、大体濃いめだろうか、と思ったところで氷に溶かす。中途半端に冷えたアイスコーヒーを紙コップに持って、起きがけに憧れた青と緑の世界に顔を出す。それがうまいのかまずいのか、カフェイン摂取のための無頓着な時間なのに、外の空気こそは丁寧に吸い込もうとする自分に恥ずかしさを憶えた。

「おはよう」
「おはようございます。今帰ったんですか」

 崩れかけた化粧が隣の窓から顔を出し、一服していた。ぼくも合わせるようにたばこを吸い始める。
 近くのどこかで水商売をしているらしいその女とは、時折こうして話したり、夕方にはすぐ向かいのコンビニで会ったりする。ただそれだけの関係だ。少なくともぼくは、その関係が奇妙だが好きだった。仲間もいない孤立した環境だから、たまにゲームをしにやってくる友人みたいに思えて。歳は多分、八つか九つくらい上だろう。好みではないが、けっこう綺麗な人で、目つきの印象よりもずっと気さくだ。

「四時には帰ってたの。でも酔ってソファで寝ちゃった」
「お疲れさまでした」

 切れ長の目はぼくを見ず、腹が立つほどのあの青空を捉えている。彼女の吐き出す息が可視化されるのを見ると、なんとなくたばこが神秘的なものに思えて、ちょっと可笑しい。

「いろいろあんのよ」
「なんですか?いろいろって」

 それから常連客にまつわる身も蓋もなく、取るに足らない話をそこそこに拡げて、ぼくたちは吸い殻を一本、二本と増やした。
 ぼくは彼女のあくびを見て、「おやすみなさい」なんて伝える。本当はもっと話したいとも思うけれど、実にぼくらは話すことなんてない。何かを知っているようで、互いに何も知らない。それに、労働後の彼女にきちんと休んでほしいという率直な気遣いさえある。赤の他人なのに、優しくしたいと思う。彼女とセックスしたいとか、一緒にランチを食べたいとか、買い物に出かけたいなんて妄想もできない。性欲や恋愛感情じゃないけれど、ぼくは単に存在証明ができるのならば、もしかすると誰だってよかったのだろう。

 ぼくが生きているという確かな事実。それはぼく一人きりでは知り得ない。ぼくは絵描きや音楽家ではない。起業もできないし、誰かの指示や指摘を聞くのにも体力を削られる性分だ。だから形として世界に何かを残すことは、きっと先の未来にも難しい。手っ取り早く自分の生存を確信できる術として、誰かと話がしたいのだろう。その相手が誰であっても、むしろ大して互いに興味や関心がないほうが気楽で、直線的で、好都合。

「おやすみなさい。あの、よかったら」

 水分不足でかすれたぼくの声が点。もう女は部屋に戻ってしまったらしい。いつしかぼくを伝う汗も乾いていた。
 快適な涼しさからか、コーヒーを飲んでももう一眠りしたくなった。それもいいね、と自分に答えてやる。ぼくは今日、何もないから。何もないただの一日なのだから。彼女の口から押し出された白く輝く煙を思い出す。ぼくも小さく息を吐いた。


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