人との繋がり、共同体のあり方(読書メモ 自助論)
これからの人生で「居場所をつくる」に取り組んでいくことになりそうなので、私がコミュニティ・共同体の中でありたい姿について考えた話を記録しておく。
1年ほど前から友人3名で、本を読んでテーマについて読書感想文を書き、ディスカッションするという読書会を行っている。その中で私が人との繋がりについてだした「私はなぜそこに思いがあるのか」「個人としてどうしていくつもりなのか」をまとめてみる。
「社会に対してどうするのか」はまだクリアじゃないけど、きっとこれらの2つの先にありそうな気がしている。
課題図書とテーマ
課題図書はサミュエル・スマイルズの「自助論」。
テーマは一市民(家庭・地域社会)/日本/ビジネスパーソン/所属する企業など、様々な所属する組織やコミュニティにおいて、自分はどうありたいかを考えるものだった。
所属する共同体の定義と広がり
私はまずこのテーマに対して、自律と相互扶助を考えさせたいテーマだと理解した。そこに異論はないのだが、一番大きいくくりの一市民にカッコ書きで(家庭・地域社会)という記載があることに違和感があった。私にとっての社会との繋がりは「外部環境によって決まる家庭・地域社会」だけではなく、「自らが選択して意志を持って関係性を築いていくコミュニティ」も含めてはじめて成立すると思うからだ。
私は「個人の所属先といえば家庭・地域社会」という考えは好きではない。現代においてコミュニティ・相互扶助のよりどころは家庭・地域社会ではないと思うのだ。この考えに至ったのは高校生の時なのだが私の家庭・地域社会との繋がりがかなり弱いと感じていたからだ。
兄弟なしの一人っ子、いとこもなし、三親等以内の親族が片手で数えられることとその親族の稼ぐ力が低かったこと。都会のど真ん中で学校は全て私立校だったため、地域内で人と関わることはほぼなかったこと。
周りの人が当たり前に存在するかのように語る家庭・地域社会コミュニティは私にとっては当たり前ではなかった。同年代の友人が持っているのに私は持っていない人的資本がある不安を痛切に感じていた。人より自立心が強く育ったのはこの不安から来るものだと思う。
それと同時に、家庭・地域社会の住人たちが誰かに依存していることにも違和感を覚えていた。依存することが当たり前になっているが、それを持たない人にとっては当たり前ではないし、その社会の一部が欠けたらその生き方はできないだろうと感じていたからだ。
大学に入学し世間が広がると、私のような不安を抱える人は確かに存在すること、また家庭・地域社会のコミュニティはあるが距離が離れることでそのコミュニティが機能しなくなっていることに不安を覚える人がいることがわかった。そうした色々な家庭や地域社会の関係をみたり、時には関係性の中に入っていく中で現代社会における相互扶助機能は、家庭・地域社会に担わせるのではなく別の形があって然るべきなのではないかと考えるようになった。
だから私は自律と相互扶助の関係について考えるときには、相互扶助の新しい形もあわせて考えたいと思う。
人との繋がりに対して私はどうありたいのか
上記で述べたことも踏まえ、まず私自身は人との繋がりを自分でつくり続けること、依存はしないが適度に助け合える関係性を維持することを目指したいと思うようになり、実際にそれを踏まえて行動している。
これまでの文脈のもとでこれを語るとまる助けてもらうための人との繋がりに聞こえるかもしれない。しかし、それは目的ではなく、自らコミュニティを選べるだけの自立心と余裕を持ちたいという私の状態目標があるのと、自ら積極的につながり続ける人でありたい、良い影響、ほっこりを与えられる人でありたいという他者との関係におけるスタンス・行動原則にしているだけだ。これが私の所属する組織やコミュニティに対してのありたい姿だ。
また、この考え方を外部に向けると「いくつものコミュニティの集合体が存在し、重なり合って、孤立する人を作らない社会にしたい」というものになる。私/私の友人や知り合いだけではなく、その範囲を広げて少しでも良い社会につなげたい。
これが私の「居場所をつくる人になりたい」という気持ちができた一側面だ。
この社会の実現は私の力だけではなし得ない。
ただ、仲間がいたら・・・?
転職して8月から別の会社で働くことが決まり、仕事で仕組みづくりを通してこのテーマに取り組めそうな気配を感じてわくわくしている。
自分の考えは変わっていったり、整理されていくことはあると思うが、それもまた楽しみ。
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