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紺屋の白袴

本を書こうと思っている。タイトルは,紺屋の白袴。って思ってたけど,今書いてて,荒野の白袴もいいんじゃないの。って思った。
わたしの生きてる世界って、荒野って感じだよ。

荒野に白袴の女性が佇む。彼女は歩いて行く
白い袴をはいて。

何の話なんだ?

そうそう。私は心理士だ。
精神的健康を保つためのさまざまなことについて
日々知識と経験をたくわえ,
出会うさまざまな方の困りごとを拝聴し
必要であれば検査もして
"その人にとっての解決"を見立て、探り探り、
ときにリードし、ときに後方から眺めながら
ともに問題解決や治療の道をあゆむ

その方がひとりであるけるようになったら
ここから見ています、ずっとおぼえています
といって、見守る

こころのなかはどうなっているのか?
なにが不適応をおこさせているのか?
不適応とはなにか?
この人はどんな人なのか?
どんな人がどんな状況にいるのか?
この人の話に不思議なところはないか?
なぜそうなってしまうのか?

みたいなことを,電磁波測定機になったような気分で
日々,アンテナを立てて
感じ取って、たしかめている。
仕事中は,他者のことばかり、考えている。

でも,最近思ったんだけどね
私は,本当は,自分の袴を染めるために
いつも修行をしてるのかもしれないと
その旅路のうえで
出会った方々の袴を染めさせてもらって
いつのまにか
袴を染めることが仕事になってるだけなんじゃないかと

つまり何が言いたいのかというと,
わたしは自分を心理職・治療者という側面だけから見ていたけれど
本当は、結局、いつもわたしは当事者なんだということ
どうしても、治療者だけの視点にはなりきれない

入院していて、思うことがある
みんな、プロに見える、治療者、看護者100%に見える
わたしはどこにいても、
どこか100%その役割になり切れない
(なり切っているようには見せられてると思うけど)
本当は、わたしってなんの仕事の人なんだろうと
ひそかに、未だに思う
そして、100%その職業で生きている人へのあこがれがある

どうすればなにかの100%になれるのか

まずはあと1本の論文を書き上げて
3月にちゃんと博士論文を通して
名刺にもPhd.って書けるようになることか

つぎに自分がこれからエネルギーの多くを費やしていく
臨床の場を、もういちどきちんと決めなおすこと
心理職ってさまざまな現場があって
私はおもに発達支援とカウンセリングをしてきたけど
でもなんか、ここから20年、まだこの先に
もっと情熱を注げる現場を探したいという気持ちがわいてきてる
(いま考えているのは、子どもの医療現場
発達障害も含めて、それだけではない、子どものこころと家族のケア、
また、大人であっても、治療で脆弱な気持ちになった方への
社会的というよりも心理面のカウンセリング)

今回、がんになって
いままで体験し得なかった、自分にとって初めての心理状態を体験して
その影響でもしかすると熱くなりすぎているのかもしれないけど
少なく見積もっても
自分はまたすこし方向転換しかけている気がする

できるだけ逃げずに
その火の輪・水の輪をくぐりぬけて
くぐりぬけるときの思考と感情を書き留めるようにして
これらの体験を、これからの人生で役立てたい
そう思うようになってから、
いまちょうどやっている乳幼児の疾病の研究も
自分の興味の範囲のなかに、もうすこし多めに入ってきた

わたしは、たぶん、へんな奴だろう
へんな奴でもいい
人間でいること、それも部分的に子どもであり続けることが
わたしの仕事の役に立つし
わたしの健康を支えてくれているんだから
今日はなんとなく、それでよかったと思える日だった

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