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【短編小説】『熟れたリンゴと夏祭り』

 毎日、毎日、空が高い。
 白い雲が一切れも見当たらない。見上げると、ただひたすらに終わりが見えない、とんでもなく高く広い、青空と、真っ白にぎらぎら光る太陽だけ。
 空がこんなに高くて、広くて、青いってことを、あたしはこっちのおばあちゃんの家に来て初めて知った。あたしが住んでいる街じゃ、空と言えばビルの隙間から見える青い切れっぱしだったり、連なっている巨大な団地の後ろにある空間を埋める、ただの背景だった。ここは、青空とリンゴ園が主役の田舎町なのだ。
 わたしは縁側から落ちないように気をつけながら、横になった体を動かした。風は気持ちいいし真上から響く風鈴の音は耳に涼しいから、ここが大好きなのだけれど、どうしたってずっと同じ体勢だと体が痛くなってくる。ひんやりした畳の部屋の方へ体を向けると、ちゃぶ台の上に食べ終わったスイカの皮がある皿が目に入った。わたしは立ち上がって、皿を台所に運ぶ。ぺたりぺたりと裸足の足がひんやりした床を歩いていく。
 今、家には誰もいない。おじいちゃんもおばあちゃんも、自分のリンゴ園で摘果をしている。何もない日は手伝いに行くのだけれど、今日はガスの点検の人が来るから家にいてと頼まれていた。その人も帰った今、やたら時計の秒針の音が大きく聞こえる。
 こっちに来てからはだいぶましになったけれど、向こうにいるとき、あたしはこの音、時計の音というものが、世界で一番、だいきらいな音だった。
 じわじわとゆっくり歩いてくる闇に、ひとりぼっちでマンションの部屋にいたあたしはとても可愛がられていた。秒針の音とともに確実に近寄ってくる気配に、ひとりだったあたしはどうしても立ち向かえなかったから、気に入られてしまっていた。リビングにある家具が暗く、黒くなっていくのと同じように、あたしも同じテンポで暗闇に溶け込むしかなかった。テレビの音と明るさは人工的でわざとらしくて苦手だった。ただじっと、誰かが迎えに来て、明るくしてくれるのを待っていた。暗いところからあたしを見つけて、生の声をかけてくれる。そればかり頭の中で想像してやり過ごした。
 特にきらいだったのが、夏のこの時間だ。
 冬なら早く日が沈むから、友達など、誰かと一緒にいるときに暗くなってくれるけれど、夏はそうはいかない。遊び終わった後、誰もいない家に帰ってきて、ひとりで暗くなるのに身をまかせないといけない。薄暗い夕闇は床からゆっくりと、あたしのそばへ這い登るのだ。
 父がいない分まで、母が稼いでくれている。だから、母は仕事が忙しい。看護師の仕事はとても大変で、まだあたしが小さい子どもだから、夜勤の日数だって減らしてくれている。
 だから、あたしが我慢しなくちゃ。お母さんはあたしのために、あたしのそばにいないのだから。
 あたしのために。あたしがいるから、お母さんはあたしのそばには長くはいられない。お母さんはがんばっているから、あたしは一人でお利口さんに、じっと待っていないといけない。じっと、じっと、じっと。
「美佐緒ー! いるかぁ?」
 ひんやりと暗い台所でぼうっとしていたから、突然の大貴の声に、心臓が思った以上に震えた。
「いるよ!! ちょっと待ってて」
 歩きながら、無駄に大きな音を立てた胸のあたりをトントンと叩いて紛らわす。
 しばらく、思い出していなかったのに。
 自分に負けた気がして、悔しい。原因を探ってみると、午前中にかかってきたお母さんからの久しぶりの電話が思い当たった。話の内容を思い出して、ぎゅっと唇をかむ。
「美佐緒ー」
「わかってるってば。今開ける」
 急いでつっかけをはいて玄関を開けた。とたんに、セミの大合唱がなだれ込んでくる。玄関を出たすぐ近くに大きな桜の木があって、そこに何十匹ものセミたちがとまっているのだ。
 大貴はここからすぐ近くに住む、あたしと同い年の男の子だ。小学校低学年の頃は、夏休みにここへ来るたびによく遊んだ仲だ。今年、高校一年になり、久しぶりにここへ遊びに来て大貴を見たときはびっくりした。少し低くなった声、ぐっと大きくなった手、あたしの背を余裕で超えている身長。だけど、人懐っこい笑顔は変わっていなかったおかげで、昔と同じようにすぐに仲良くなれた。
「急になに? どしたの?」
「急になに、じゃないだろ。ほらこれ」
 大貴が差し出したのは大きな紙袋だった。
「なにこれ」
「浴衣だよ」
「浴衣? なんで?」 
 ぽかんとしているあたしを、大貴は眉をよせて見つめた。
「お前、ほんと忘れっぽいのな。自分で言ったことも忘れたのかよ。この間、俺の姉ちゃんに会ったんだろ?」
 会ったっけ? 
 青空ばかりちらつく記憶をさかのぼる。ああ、そうだ。会った。この間リンゴ園に手伝いに行く途中で、バイトへ行く最中だった大貴の大学生の姉、美代ちゃんに確かに会った。一面青の下で、右手にはリンゴの森が広がっていたところで。
「うん、思い出した。会ったね」
「その時、姉ちゃんから祭りの話を聞いて、浴衣なんか持ってないって話、したんだろ。だから、ほら、浴衣。あと下駄も。俺の姉ちゃんが昔着てたヤツ。祭り当日になっちゃったけど、まだ間に合うだろ」
 ほい、と手渡された紙袋を覗くと確かに綺麗にしまわれた浴衣が入っていた。
「あ、そっか! お祭りって今日だったんだ」
「はあ? そこから?」
 本当にあきれた声を出した大貴をちょっとにらむ。
「だって、それどころじゃないことがさっきあったんだもん」
「それどころじゃないことって?」
「いや、ちょっとね。それより、お祭りって何時からだっけ?」
「あー、確か、屋台がでてくるのは四時くらいで、町内会が出し物始めるのは五時くらいだな。で、八時ぐらいに日高山から花火があがる」
「日高山から? めっちゃ近い山じゃん」
「ん、そう。だから花火の破片とかまじで降ってくる。たいていチリとか灰になってるけど、目に入るとかなり痛い」
「うわ、それは痛いわ」
 思わず笑うと、大貴もにやっと笑った。
「しかも打ち上げてるのが宮野んとこのよぼよぼのじいちゃんでさ。日高山登るのも毎年一苦労らしい」
 宮野というのは、大貴と同じ部活で、一番の友達らしい。大貴の口からはしょっちゅう宮野という男子の名前が出てくる。しかも宮野に関する話は大抵面白い。会ったことはないけれど、あたしの頭の中では笑える話つきの宮野の像ができあがっている。
「あはは、そうなの?」
「うん。だから、今年は宮野もじいちゃんについて行って、花火の打ち上げ手伝うんだってさ。ということだから、俺、一緒に回る人がいない。で、お前もいないだろ」
「いないねえ」
「だから、祭り、一緒に行こうぜ」
 心臓が口から飛び出るほど大きく鳴ってしまったのは、大貴の耳が、顔が、暑さのせいだけじゃなく赤く染まったのが分かったからだ。
 気づいたらセミの大合唱が止んでいた。茶の間から響いてきていた風鈴の冷たい音もしない。この夏の世界にいるもの全てが静かにじっと、こちらに注意を向けている。そんな気がして、あたしは慌てて声を出した。
「ご、ごめん、一緒に行きたいんだけど、実はさっきお母さんから電話があって、仕事、休みが取れたから、今日、こっちに来るって……」
 大貴の顔が曇った。一瞬うつむいて、それからまっすぐにあたしを見た。
 まだ、目の中に力が残っている。
「まじ? 何時?」
「えっと、わかんない。多分、様子を見ながら仕事を早めに切り上げてくるんだと思う。早くて七時、遅くて九時ごろかな……」
「それ、美佐緒が家にいなきゃだめなの? ばあちゃんたちが家にいればいいんじゃないの?」
 力強く言われて、あたしは黙ってしまった。
「美佐緒が、こっちに来るお母さんになるべく早く会いたいなら、祭りに行かないでここで待っていればいい」
 ……もしかして、怒った?
 突き放された言い方のような気がして、大貴の顔を見つめた。すると、あたしの表情を読んだ大貴は慌てて言葉を付け加えた。 
「あー、ごめん、言葉足りなかった。ほんとに、別に、どっちでもいいんだ。家で待ってたかったら待ってればいいと思うし。……たださ、どうせお母さん、泊まることになるんだろ?
「……うん、たぶん」
「だったら、明日会えるんだし、何時に来るか分からないのに、じっと家で待ってる必要なくね?」
 大貴の言葉に、耳がぴくっと動いた。大貴をじっと見つめる。
「じゃあ、俺、四時半くらいに公園で待ってるから。もし来る気なら、来いよ」
 大貴はそれだけ言って、まぶしい外へと出て行った。
 気づかないうちに溜め込んでいた息をはきだす。家の奥で、風鈴が一際高く鳴った。それが合図だったかのように、セミの大合唱もまた始まった。
 ぺたぺたもと来た廊下を戻っていく。茶の間の片隅に紙袋を置いて、畳の上にごろりと横になった。
「あああーどうしようっ」
 自分の手でぎゅっと目隠しした。脳裏に大貴の声、しぐさ、顔が浮かび上がってくる。 
 恥ずかしいような、嬉しいような。とにかくいろんな感情がごっちゃになって胸がいっぱいで、どうすれば平静になれるのかわからない。体の中を駆け巡っている血液が、赤くて熱くて、チョコレートよりもずっと、甘いもののような感覚がする。とりあえず、じっとしていられなくて、ごろごろ畳みの上を転がった。イグサの匂いが鼻につく。
 大の字になったまま、壁に掛かっている振り子時計を見た。おばあちゃんたちが帰ってくるまで、あと少し。そしたら、浴衣を着せてもらって、髪の毛を少しアップして。全部準備が終わるのにどれくらいかかるんだろう。四時半には間に合うのだろうか。
 そこまで考えて、はたと自分がもう祭りに行くつもりなのに気がついた。
 むくりと体を起こす。それからわざと秒針の音に耳を澄ます。だけど風鈴の音や、セミの大合唱や、外で駆け回っている子どもたちの声で、ほとんど耳の中に響いてこない。何より、自分の心臓の甘い鼓動の音が邪魔をしている。
 “じっと家で待ってる必要なんかなくない?”
 さっきの大貴の言葉が、くるりくるりと、休む暇なく頭の中を回っている。
 革命的な言葉だと思った。どんな格言や名言より、あたしの頭に衝撃をもってがつんとぶつかってきた。
 どうしてまだあの人を、暗闇に浸りながらじっと待っていなきゃいけないなんて思ったんだろう。
 秒針の音が、耳の中で大きく響いてしまったんだろう。
 忘れていた。あたしはもう、暗闇がこわくて泣くほど小さくはないのだ。
 今はカチコチ鳴るたびに、どこかの野原で真っ白な愛らしいつぼみが花を咲かせているようにさえ感じる。
 こんなに胸を高鳴らせる、甘い音は、きっと世界中、どこを探してもないだろう。
 紙袋の中からそっと浴衣を取り出した。綺麗に折りたたまれた浴衣を丁寧に畳みの上に広げていく。ぱたん、と浴衣を広げるたびに押入れの匂いがちょっぴりした。大切に保管されていた証拠だ。浴衣には、藍色の生地に、真っ白なリンゴの花が描かれている。その合間を縫うように小さな桃色の蝶が羽をひらめかせて飛んでいる。ところどころにキラキラした銀色の蝶の奇跡が散っている。浴衣の下にあった桃色の鼻緒の下駄も、リンゴの花が描かれていた。
 一通り畳みの上に並べてから、あたしは縁側へ出て眩しい夏の青空を見上げた。 
 空がこんなに高くて青い。それを初めて教えてくれたのは、ここだった。
 他にも、たくさんのことを、ここへ来て初めて知った。
 夏なんて、ただ湿気が多くて日差しが焼けるほど強い季節としか、思ってなかった。それが、むわっと立ち込めている熱い空気の中に、実は生命力溢れる緑の濃い匂いが満ちていることも、夕立が降る前に乾いた土の匂いが立ち上ることも、夏の朝には山の川のような透明で澄んだ露が降るということも。
 そして多分、今日初めて、あたしは知ることになるはずだ。
 夕方、燃えるような茜色を過ぎたあと、藤色に染まり、藍色に変わる空の美しさを。浴衣の隙間から入り込む柔らかくひんやりとした風を。赤提灯が浮かび上がらせるとたくさんの人の笑顔と活気を。
 それから、誰かと二人で過ごす夏の夜に漂う空気は、きっとどんなときの空気よりも穏やかで、甘い匂いがするということを。
 目を閉じた。風鈴の音と一緒にどこかで甲高いひぐらしの鳴き声が響いている。夕方近くになると吹く、とびきり優しい風が肌を撫でていく。
 今晩、あたしはきっと、隠し上手な暗闇に、感謝することになるだろう。大貴のすぐ隣で並んで歩くとき、あたしはきっと、必要以上に赤く染まってしまうから。それはまるで瑞々しく熟れたリンゴの赤のように。

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