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【小説】『さみしがりやの星たちに』第4話(完結)

 暗い夜の通学路をせっせと進む。今は夜の八時ちょっと前。学校の裏門には八時に集合と沙耶と約束をしていた。沙耶も来なくなったのだから、本当は時間通り行く必要なんてどこにもないのだけれど、何となく予定通りに進んでいる。
 星が、見えるなあ……。
 電灯がぽつんと立っている場所から少し離れたタイミングで空を見上げて歩く。空はめったにないほど綺麗な一面の星空だった。いっそ、雨でも降ってしまえばよかったのに。そしたら、一人ぼっちで夜の学校に行かなくて済んだのに。
 裏門に到着した。当たり前だけど誰もいなかった。背負っていた望遠鏡が入っているリュックをいったん下ろし、門の横の隙間に押し込む。向こう側に行ったのを確認してから、裏門を乗り越えた。少しキィと耳障りな音が静かな夜に響いたが、それ以外は完璧な侵入だ。あたしはリュックを背負い直して、昼間わざと鍵を開けておいた窓へと向かう。窓はあっけなくなめらかに開いた。物音一つしない校内を、息を潜めて見つめる。それから、あたしは暗い廊下に入って、持ってきた上履きに履き替えて、懐中電灯をつけた。 目の前には月明かりに照らされた廊下が真っ直ぐに続いている。ぺったんぺったん上履きをすりながら息を潜めてゆっくり進んだ。そこはあまりにも幻想的で、気圧されるほど神秘的な空間だった。 
 月明かりに白く銀色に照らし出される廊下。いくつも真っ暗な部屋が横に連なっている。教室を覗き込むと、窓側の席だけがぼんやりと白く浮かび上がり、もう一度廊下に目を戻すと、ロッカーに一つ一つ取り付けられている鍵が驚くほど月の光を反射させて煌めいている。一歩進むごとに、ミルク色の光る道を進んでいるようだ。
 あたしなんかが、この綺麗で純粋な世界に足を踏み込んでしまってよかったのかと思うほど、何だか現実味を帯びていなかった。夜になっただけで、いつもあたしたちを規則や勉強に縛り付けている学校がこんなにも変わるなんて信じられない。
 できるなら、やっぱり、沙耶と見たかったな……。
 ゆっくりと廊下を通り抜けて、階段をのぼり始めながらふとそんな思いが胸をよぎる。その思いを忘れたくて、急いで屋上へと続く扉を開いた。重たく軋む音を立てて、屋上と学校を繋ぐ扉が開かれる。
「う、わぁ……きれい……っ!」
 思わず口から言葉がこぼれた。太陽に照らされている昼間とは一転、屋上は月によって涼しげに美しく照らし出され、星が月の回りで騒々しく煌めいていた。少しの時間も無駄にしたくなくて、暗く沈んでいた気持ちも忘れて大急ぎでリュックから望遠鏡を取り出してセットした。屋上の真ん中に望遠鏡を置いて、しばらく夢中になって覗き込む。
 こと座のベガとわし座のアルタイル、この二つの青白い星が織姫と彦星。それから、白鳥座のデネブを繋げば夏の大三角。あのオレンジ色に光っている星はアルクトゥルスで、牛飼い座。青白い星、おとめ座のスピカはアルクトゥルスと夫婦で……。
 小さい頃、お父さんとお母さんに教えてもらった星と星座をできる限り見つけ出す。ついでに、忘れかけていた星の神話も思い出す。それがひと段落着くと、あたしは望遠鏡から目を離してぱたりと大の字になった。
「はあ…………」
 じいっと真上に広がる夜空を見つめる。たくさんの星を抱えている闇色の夜空を見ていると、どんどんその奥に引き込まれそうな錯覚に陥る。ついさっきまでは見えなかったはずの極小の星ですら見えるような気になってくる。
「………………きれい」
 もう一度、小さく呟いた。声にほんの少しだけ悔しさが混じる。そうだ、あたしは多分今、悔しいんだ。
 認めたとたん、目の奥がじわっと熱を持った。大の字になったまま涙が落ちないようにまばたきをせず、大きく開き続けた。
 多分、あたしは自分の大きさを勘違いしてた。あたしは、この大きな、どこまでも続く広大で深い夜空の中に光っていることが確認できないほど、小さな小さな星だったのだ。地上からじゃとても見えないほど、小さな星。そんなカスみたいな星が必死に煌(きら)めいても、誰が気づいてくれるだろう。あたしが、世界中の誰よりも光るなんて、無理な話だったのだ。沙耶があたしに気づいてくれたっていうことだけで、もう奇跡みたいに大切なことだった。それなのに、あたしは沙耶に悲しい思いをさせた。あたし、欲張りすぎだったんだ。
 我慢しきれなくなった涙がほっぺたを伝って、耳の方にすうっと流れた。夏の夜の濃い匂いがする風が吹き、涙の通り道を冷たくする。
 そのとき、校舎の中から音が聞こえた。
「え……っ?」
 ゆっくりと体を起こして、扉を見つめる。すると、風に混じって確かに音が響いてくる。
 これ、屋上に通じる階段を上ってくるとき
に、床が軋む音……!
 こくん、と空気を飲み込んで、吸いつけられるように扉を見つめる。周囲に目を配ったが、隠れられるような場所はないし、望遠鏡だって今から片付けていても間に合わない。
 こんな時間に来るなんて、先生しか考えられない……!
 隠れなきゃ、と脳が訴えるが、目は隠れる場所を見つけられない。体は緊張で強張ってしまって動かない。もし見つかってしまったら。そう考えると余計に体は動かなくなった。
 そして、扉がガチャンっと開かれる。普段は聞き慣れた何てことない音が、夜の静まり返った屋上に大きく余韻を残して響く。
 やだ……どうしようっ!
「ごめん! 遅くなって本当にごめん! やっと塾の夏期講習が終わったた……っ」
「え……あ、沙耶!」
 扉から息を切らせて飛び込んできたのは沙耶だった。塾から直行してきたようで、重そうな肩掛けカバンをぶら下げている。
「何で……塾だから無理って言ってたのに……」
 屋上に座り込んだまま沙耶を見た。沙耶はにやっと笑ってからあたしの横に腰を下ろす。
「今日の最終講、仮病で休んじゃった! 深月だけにこんないい星空見せてなんかあげないよー。見るならあたしと一緒じゃなくちゃ、ね?」
 沙耶は息を整えつつにこっと笑った。その顔に、その言葉にどうしようもなく胸がいっぱいになる。呼吸もきちんとできないくらいに。
 沙耶はじっと夜空を見上げて、まるで声を立てるのもこの場にそぐわないと言うように、小さな声で呟いた。
「すごいね、一度にこんなに星見るの、あたし初めて」
 あたしは沙耶の言葉に小さく頷く。沙耶は言葉を続けた。
「……きっと、寂しいから光るんだろうね。みんなで一緒に騒ぎたくて、自分がここにいるってことを遠い星にも知ってほしくて、こんなにキラキラ光ってるんだろうね」
 沙耶はいったん言葉を切って、嬉しそうにふふっと笑った。耳の端が赤く染まっている。
「もしかしたら、星は嬉しがってるかもね。どんなに小さくてもさ、光ってさえいれば、あたしたちがその星を今、見てあげられているはずだもん。うん、きっと嬉しいはずだよ。こんな遠くにいる、あたしたちにも存在を知ってもらってさ」
 それから、沙耶は望遠鏡を覗きこみ始めた。
 小さく「おおー」と感嘆の声を漏らしている沙耶の後ろ姿をじっと見つめ、それからゆっくりと夜空を見上げる。
「沙耶」
「んー?」
「星って、踊ってるみたいに見えない?」 
 沙耶はあたしが夜空に手を伸ばしているのを見て微笑む。それから沙耶もゆっくりと手を星に向かって伸ばした。
「うん。見えてきた」
 沙耶と一緒に見る星空は、一人で見るよりもずっと優しく柔らかい光をまとっているように見える。あたしはそっと夜空に手を伸ばしたまま、決して届かない星を撫でてあげたくなる。

…END

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