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花束を君に ~櫻坂46 菅井友香卒業セレモニー~

2022年11月9日
櫻坂46 2nd TOUR 2022"As you know?" Final東京ドーム公演をもって、
欅坂46時代からキャプテンを務めあげた菅井友香さんがグループを卒業しました。


生真面目で純粋で、どこかおっちょこちょいなところがある(もちろん良い意味で)。乃木坂の初代キャプテンを務めた桜井玲香さんに共通する、大所帯女性グループのまとめ役として、彼女は間違いなく最適だったと思います。

誰かのせいにしないから。まず我がことと受け止めて、グループとしてどうすべきか、自分自身は何を語るべきかを考えられる。誰に教えられるでもなく、そうした立ち位置を進んで(甘んじて)引き受けられる度量と優しさが彼女には備わっていたのだろうと思います。

(以下、敬称略)

東京ドーム ※注釈※ 終演後のみステージの撮影・SNS等へのUPが許可されました

■時に悲痛なほどに


乃木坂46のファンとして推し活を始めた僕は、欅坂46を後追いで好きになっています。だから、活動当初の頃のことは分からないことも多い。好きになったころには、既にセンター・平手友梨奈の不安定さが誰の目にも明らかになっていた頃でした。その傍らで、必死に「平常」を装いながら時に震える笑顔でMCを務める菅井友香の姿がありました。

きょうの卒業コンサート、終盤に現役メンバーから一人ずつ、菅井友香にメッセージをしたためた手紙と花束を渡すシーンがありましたが、同じ1期生の齋藤冬優花は「ゆっかーが小さなメモ帳片手に寝落ちしている」姿を見かけたと添えて、いつもメンバーのことを考えて、ライブや楽曲披露の場で話す内容を考えていた菅井友香の姿勢をたたえていました。

欅坂46が新曲を思うようにリリースできなくなり、断片的な報道が先行する中で、中には人間不信や疑心暗鬼に陥るメンバーもいたといいます。彼女はそんな一人でした。

まるでゴシップの種のように書かれてしまう。止められない空中分解、そのただ中で震えながら耐え続けていたのが菅井友香でした。

キャプテンである自分を責めていたのかもしれません。毎週のように暴き立てられるゴシップはまるで欅坂に対するいじめそのものでした。顔出しで、実名で活動を続ける彼女たちにとって匿名の「事務所関係者」が好きに放言する内容は、事実であるかどうかはともかくも人間不信を呼び覚ますに十分な仕打ちだったと思います。

2年前の10月、欅坂46はTHE LAST LIVEを開催し、事実上活動を終えました。壇上に並ぶメンバーの姿は痛々しくも美しく、儚くて、悲しくて、いったい誰がこんな仕打ちをしたのかと、こちらが言葉を失いそうになる中、我々が言いたくても言えなかったことを代弁してくれたのが彼女でした。

「欅坂46が大好きです」


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■欅坂の居場所


今回、僕はDAY1とDAY2両方に参戦しました。どちらも、アンコールで欅坂46の懐かしい「overture」が流れ(ばね仕掛けの人形のように椅子から飛び上がり、胸が熱くなるのを感じながら)、「10月のプールに飛び込んだ」「青空が違う」「世界には愛しかない」「不協和音」「砂塵」などが披露されました。

「10プ」は、幻のシングル楽曲として、有観客ライブでは初めて披露されました。DAY1で披露されましたが、そこにはキャプテンの悔しさも込められていたのだと思います。

そしてDAY2では、「不協和音」の渾身のパフォーマンスが披露されました。約3年前、欅坂46時代に初めて東京ドームに彼女たちが立った時、そのDAY1のアンコールで「解禁」されたのが「不協和音」。持ち歌でありながら、決死の覚悟がなければ披露できない、諸刃の剣のような切り札の一曲。絶対的センターだった平手を欠いて以降、その大役を務めてきたのが菅井友香だったことを考えると、どうしてもこの曲は披露されなければならなかったのだろうと思います。

欅坂46との「決別」のために。
欅坂46との「和解」のために。
欅坂46の「居場所」を作るために。

欅坂46も櫻坂46も、どちらが良い悪いではなくて、その両方が必要なんだと示すために。


楽曲はメロディとして生まれ、誰かが詩を乗せて、それを歌う誰かが声という翼を与えて初めて「生」を育むようになる。

きょう、東京ドームで焼く3年越しに披露された「不協和音」は、その数奇な運命の中でようやく、「居場所」を与えてもらったのではないかと思います。


22番ゲート入ってすぐ

■花束を君に


アメリカの作家、ダニエル・キイス(1927-2014)の代表作に「アルジャーノンに花束を」という作品があります。僕が読んだのはハヤカワ文庫から出されている日本語訳でした。

主人公・チャーリーの一人称で物語が進められ、知的障害を抱える主人公が実験によって超人的な天才に変貌しながらも、やがて哲学的・宗教的・肉体的な苦しみに苛まれるようになり、やがて知能が後退していく(元に戻っていく)という物語です。

アルジャーノンは、主人公・チャーリーが心を寄せる実験動物のハツカネズミに与えられた名前。アルジャーノンもまた、数奇な運命をたどることになります。

序盤は、たどたどしくて文法も間違いだらけの1人称の語りが、実験を機に驚異的スピードで変貌を遂げていく。難しい思考が可能となり、哲学的・科学的な考察で、それまではチャーリーを下に見ていた周囲の人間たちをあっという間に追い越し、遥か凌駕し、圧倒的な知能指数で俯瞰するようになります。

ところが、同時にチャーリーの中に生まれてきたのは、恥じらい、でした。女性の前でどぎまぎしてしまう自分。いわゆる「好意」というものになじみがなく、それすらも哲学や科学で考察しようと試みるうちに、やがて思想の迷宮に迷い込んでしまう。得体のしれない苦しみに夜ごと苦しめられ、悲しいかな発達しすぎた頭脳はその苦悩すべてをチャーリーにあますことなくぶつけてくる。

破裂しそうになるチャーリーですが、彼を超天才に仕立て上げた実験には致命的な落とし穴があったことがわかります。日に日に、思考回路が減退していく。まるで老人が記憶を失っていくように、複雑な思考は彼の中から一つまた一つと失われていき、記憶も欠損していく。ほんの1か月前に書いた自分のノートが読み返せない。

天才になったスピードが急速なら、知能を失っていく(元に戻っていく)スピードもまた急激でした。やがて彼の1人称の語りは、物語の始まりと同じく、稚拙で文法も間違えた内容に戻っていく。

最後に、たどたどしい文章で彼は最後の願いを書きます。

「ねずみのアルジャーノンに、花束をそなえてあげてください」

主人公・チャーリーは何を失い、何を得たのか。この物語はハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか。今もわからないし、おそらく読者によっても全く異なるのだろうと思います。


ただ、急速に大きく膨れ上がっていたものが、もう一度、ひとところに収束していくというその部分に、愛着を覚えるのです。万物に共通しているのではないか、と。



想像を超える速度で膨張していった、欅坂46というパブリックイメージ。その急激な変化に最も戸惑っていたのは、周囲ではなく、彼女たち自身だったのだろうと思います。

欅坂は櫻坂に生まれ変わり、新しい道を進み始めます。

ただ、欅坂も櫻坂も、地続きの天体のように存在しているんじゃないかと思います。少なくとも、きのうときょう、東京ドームで彼女たちが見せたパフォーマンスにはそんなメッセージが込められているように感じました。

メンバー一人一人が、それぞれの意味を持って二つのグループの命運を背負ってきました。

きょうという日を最後にステージを降りる菅井友香という人が、伝えたかったこと。そのヒントが隠されているように思います。

■燦然と輝いて

卒業公演では、卒業するメンバーは最後にひとりだけドレスで盛装します。ティアラを載せて、きらびやかなドレスでステージにひとり現れるとき、胸がぎゅっと締め付けられるような気持になります。

これまで、乃木坂も含めていろんなメンバーのラストステージを見ましたが、何度経験しても、胸がぎゅっと締め付けられるこの感覚だけはいつも必ずやってくる。

それまでのライブパフォーマンスが熱いものであればあるほど、この静寂がサヨナラの寂しさを痛切に訴えてくるのです。

そうか、ラストなんだな、と。

遠くに行ってしまうんだな、と。

乃木坂も含め多くの卒業生は、いまも芸能界に残ってくれているので活動は耳に入ってきます。けれども、彼女の歓声や歌声が響いていた懐かしいこの場所からはいなくなってしまう。それがどれほど寂しいことか。

その寂しさを一番感じるのは、ライブ終了後の帰り道ではなく、次の日の朝なんだ。

あすの朝、目覚めたら、もうあなたのいない櫻坂が(乃木坂が)始まっている。そして世の中は当たり前のように前へ前へと動いていく。振り返ってはくれない。「そんな暇はないよ!こっちはね、忙しいんだ!!」と言わんばかりに。

僕の心はきのうのままなのに。

それでも時間は過ぎていく。いまは残酷に思えても、だからこそ歩みを決して止めてくれない時間という概念は、やがてこちらの心を癒してくれる。正確に言えば、癒すなどという優しいものではなく、強制的に順応させる。

時間はいつもドアを強くノックし続ける。

「朝だぞ、もう次の日の朝だぞ。ぐずぐずしていちゃいけないぞ。」


分かってる。

ただ、その前に、思い出の中の彼女に花束を届けたい。心からの花束を届けたい。


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