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「別れ」にどう向き合うかが、人生の質を左右するという話。

春は、別れの季節。
そんなありふれたことを、今年は何度も考えている。


生まれてたったの5年しか経っていない我が娘。
そんな彼女だが、ありがたいことに”心の友”と呼べるような友達ができた。
Nちゃんというその友達と娘は、毎朝「おはよう」を交わしては小鳥のように絡まって遊び、帰るときには手を取り合いおでこをくっつけ、別れを惜しんでいる。
また明日会えるのにね、といつも私たち親は微笑ましく思っていた。

しかしそのNちゃんが突然、海外へ引っ越すことになってしまった。

その事実をNちゃんのママから知らされたのは、3月のこと。
実際に引越しするというゴールデンウィーク明けまで2ヶ月近く、私は別れを意識しながらも気づかないふりして、やっとここまできている。
親子ともに心の奥まで触れ合った実感があるので、彼女たちの出立を前にして私は、いつも重い鉛を運んでいるような気分だ。


いま、私は考えている。
必ず別れることの決まっている大切な人と、残された時間にどんな顔をしてどんな話をすればいいのだろうか?
もう大人なのに、実はそんな感情の処理方法すら、よく知らない自分を思い知らされている。

大粒の涙や感謝の言葉。
そういうものを送るシチュエーションがなければ、別れらしくないような気がする。
それなのにけっきょく私はこの2ヶ月、Nちゃん親子といつものように接し、そしていつもの調子でバイバイと言い続けた。
夜、ベッドに入ると二人の顔が思い浮かぶ。
これでいいのだろうか?
一体全体、本当の別れの日というのは、いつかわかりやすく明快な顔でやって来るものなのだろうか…。
正解がないまま、ただ時だけが経っている。

*
*
*

人との別れ方がわからない。
そんな情けない私に今、やたらと刺さる曲がある。
CHAGE and ASKAが2001年に発表した、「鏡が映したふたりでも」という名曲だ。

毎度雑なまとめ方をしてしまうが、この曲、要は不倫関係にある男女のふとした日常のスケッチだ。
不倫の歌で幼稚園児たちの別れを抱えた私が癒されるのは何だか変だが、しかし本当なのだからしょうがない。

詞の中にわかりやすく書かれてはいないが、曲の中の男女は道ならぬ恋の真っ只中にいる。
いつか必ず別れなければならない二人。
そんな男女が肌を寄せ合い、心を寄せ合う。
静かで、淋しく、そして愛に溢れたバラードである。


悩みじゃなくて
哀しみ痛みとは言えなくて
伝えようのない気持ちが
僕にはある

同じものを
きっと君も持っているだろうね
また始まって
ここに戻った恋だからね

君の背中は僕の胸で
休日のようになってる
「あの時 今を覗けていたら」って
鏡を見上げながら

未来のことが分かるのも便利だけど
こんな気持ちでいられる今を
素敵に思おう


もうこれ以上 側に寄れない距離で
ずっといると
どっちの体温か分からなくなるんだね

君の呼吸に合わせてみたり
温もりに愛を込めたり
外れた線をつなげるように
明かりを増やして行く

心はいつも寂しさを連れてるから
支え合うための言葉を
欲しがってると思える
そうだろう


愛する人を愛したいだけ
愛せる日まで愛してみる
もしも鏡に悲しいふたりが
映っても
うかんでも

未来のことが分かるのも便利だけど
こんな気持ちでいられる今を
素敵に思おう
思おう
 


世の中には、真っ当な恋愛、そして道ならぬ恋愛という二つのパターンがある。
その決定的な違いは何かといえば、それは当人たちがいずれ別れることを意識しているか、という点だろう。

真っ当な恋愛をすると、なぜか人は「永遠の愛」を約束したがる。
しかし不倫関係となってしまえば、人は「永遠の愛」ではなく「別れを含んだ愛」に苦しむことになる。


悩みじゃなくて
哀しみ痛みとは言えなくて
伝えようのない気持ちが
僕にはある

冒頭に言葉を尽くして歌われている、この謎かけのような気持ち。
これこそが、彼らの日常に通底音のように鳴っている「別れの予感」である。
そのモワッとした情感を共有できているからこそ、この男女の間には言葉にしなくても通じ合う何かがある。


いつか別れるということを知っている男女。
これは非常にドラマティックで、歌にもなりやすい。
不幸な未来に足を踏み入れる前に別れを選ぶ、とか、こんなに苦しいのなら出会わなければよかった、とか、とにかく涙腺崩壊必至の、切ない味付けで仕上げることができる究極のシチュエーションである。

だがASKAという作家は、この切なさという暴力をあえて振るわない。
逆にこの「鏡が映したふたりでも」に溢れているのは、非常にポジティブな情感だ。

未来のことが分かるのも便利だけど
こんな気持ちでいられる今を
素敵に思おう

確証めいた切ない未来を思うより、いま目の前にいる愛する人に、出来るだけの愛を注ごう…

不倫だろうがなんだろうが、人を愛せるという事実を「素敵に思おう」という提案が、実にご機嫌でステキではないか。


では具体的にどうやって人を愛するのか?ということまで、ASKAはちゃんと教えてくれている。

もうこれ以上 側に寄れない距離で
ずっといると
どっちの体温か分からなくなるんだね

君の呼吸に合わせてみたり
温もりに愛を込めたり


体を寄せ合い、心を寄せ合うのは、物理的に近くにいられる間だけだ。
観念ではなく、行動で愛する。
ASKAという作家が、ずっとずっと歌い続けていることである。

そして、さらにこの曲には圧巻のクライマックスが用意されている。
それはDメロに現れるこの一節だ。

愛する人を愛したいだけ
愛せる日まで愛してみる

90年代に愛を歌い、狂気のような大ヒット期をくぐり抜けたASKAが、21世紀になってようやっとたどり着いた、アンセム的フレーズである。

ここで歌われるのは、「愛したいだけ愛する」という際限なしのボリュームの愛ではない。
「愛せる日まで、愛してみる」という、クオリティの愛である。

愛せる日まで、という終末の線引きがあるからこそ、一分一秒を生きる態度というのが決まっていくのだ。


そう、別れの訪れぬ関係など、実はこの世の中のどこにもない
普通に仲睦まじい夫婦だって、いつの日か死という別れを経験する。
男女関係に限らず、親しい人との関係も、そして全く深いつながりの人がいなかった人にとってもこの世との別れの瞬間は、いつか必ずやってくる。

別れというのは当然ながら、寂しいものだ。
けれど、大げさで涙を誘うものに心振り回されるよりも、いま目の前のパートナー、友人、世界にちゃんと向き合っていこう
そんな風に、この曲を聴くとごく自然に思えてくるのである。
別れを日常に抱え込んだ私を、この曲はそのまま丸ごと受け止めてくれるのである。

*
*
*

連休を前にした、Nちゃんの最後の登園日のこと。
娘は、微妙に別れの気配を察したらしい。
なんとクラスの前まで行ったのにもかかわらず「今日は帰る」と毅然と言いのけたのである。

「どうして?Nちゃんと幼稚園で遊べるの最後だよ?」
あまり言いたくなかったが、最後の日であることを強調してみる。
けれど、娘の心は動かない。

「どうして帰っちゃうの?」
と門まで見送りに来てくれたNちゃんと顔を寄せ合い、何か言葉を交わし、娘は硬い表情で私の元に戻って来た。
たくさん遊んで、最後には明るく手を振って、という別れを想像していた私は、今まで感じたことのない種類のショックに、久々に押しつぶされそうになってしまった。

娘の中のフォルダーに、「別れ」というむずかしい経験が一つずっしりと収まった現場を、見届けてしまったような気がしたのだ。
娘たちに見つからないように、後ろ向きで涙を拭った。


つくづく思う。
子供というのは、人や物や出来事にうまく”お別れ”することのできない生き物だ。
楽しいことには秒速で没頭できるが、それを終わらせる、という引き際がどうにも難しい。
公園に連れて行けば、最後は泣く子の手を引っ張ることになる。
友人を家に呼んで楽しく過ごせば、帰るときには決まって不機嫌になる。

しかしそんな娘も、もう5歳だ。
このくらいになってくるとかなり社会化も進み、負の出来事もなんとか受け入れられるようになっている。
今は悲しくても、また公園に行ける。
また友達と遊べる。
そういう未来の期待を、胸に抱くことができる。

だが、下手すると永遠のお別れになってしまうときには、一体どうすればいいのだろうか。

大人たちが流す涙を不思議そうに見つめながら、まだ永遠の別れを経験したことのない娘は、でもまた会えるから、といつものバイバイで別れようとしている。
そしていつの日か、あれはいつものバイバイではなかったんだ、と気づく時がやってくる。
そしてこの春に経験した別れは、きっとほろ苦い記憶として彼女の人生にストックされていく。
親心として、そんな想像がなんだか辛い。

それでも、いつも小鳥のように絡まり、身体を寄せ合っていたふたりを思えば、きっと彼女たちは何でもない普通の時間に互いへの気持ちを、いっぱい交換しあっていたのだろう。

外れた線をつなげるように
明かりを増やして行く

親の知らぬ間に、そんなステキな日常を送っていたのだろう。

もしかすると子供は、大げさなことを考えない分、大人よりも別れ上手なのかもしれない。
そうであってくれたらな、と思う。

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