イスラム世界探訪記・パキスタン篇⑪(最終回)
28日~30日(ペシャワールとトライバルエリア→イスラマバード国際空港→帰国)
トライバルエリアへのパーミット(許可証)をあっさり取得する僥倖に恵まれた私だが、エリアに入るに当たっては、警察官をひとり護衛につけなければいけなかった。銃を背負った彼の名はピプシ。エリア内を自由に歩けるわけでもなく、ピプシと共にタクシーで走ることになるようだ。ピプシもドライバーも、ほぼ英語ができない点は残念だったが、贅沢は言えない。
車が検問所を越える際、車中から外を見ると、多くの警察官がこちらを興味深そうに伺っていた。カイバルゲートと呼ばれる門をくぐり、いよいよトライバルエリアに入る。
走り出してしばらくし、コカコーラの看板がやたら目につくのが気になった。パキスタンで見かけるのは、ほとんどペプシコーラの看板だったので、妙な気分だ。コカもペプシも米国企業だが、何かイスラム圏への取り組みの違いがあるのだろうか。「探訪記⑧」で言及したメッカコーラの看板は、私の目では拾いきれなかった。
走り始めたばかりの場所で、再び検問がある。それを通過すると、左手に墓地が広がる荒地が続いた。車は山道を登り、街へ。そこで見える景色は、ごく当たり前に人が暮らしている日常の姿だ。車に手を振る子どもたちの様子は、平和そのものである。そこそこ立派なホテルや郵便局もあった。走りながら、ピプシに煙草を勧められた。吸えない煙草を無理にふかした。
気になったのは、ピプシもドライバーも、車の窓からゴミや吸い殻をガンガン捨てていることだ。日本人の感覚ではアウトだが、こちらにはこちらの流儀があるのだから、口には出すまい。
最初に車を降りたのは、「シャイギール峠」だった。ペシャワールの街が彼方に見渡せる。しかし行きたいのは、あくまで銃の街ダラである。「ダラシティ」と何度も言ってみるが、ピプシは適当な方角を指さすだけだ。
そして、有名な「カイバル峠」に着いた。パキスタンとアフガニスタンの間にあるこの峠は、かつて多くの旅人が越えた、東西の文化圏を結ぶ重要な交易路だったらしい。しかし、パキスタンを旅した当時、そんな学のなかった私には、あまり心に刺さる景色ではなかった。ピプシが「ピクチャー、ピクチャー」と促すので、写真だけは撮った。ダメな観光客である。
続いて、「ミチニ」というチェックポイントに案内された。アフガニスタンのビザを持たずに訪問できるのはここまでらしい。アフガニスタンまで、ここからわずか10kmだそうだ。
ミチニで車を降り、展望台からアフガンを望んでいると、白い髭を豊かに生やした男が声をかけてきた。祖父はアフガニスタン人。自身もアフガンからパキスタンに移住したのだという。
「日本人はパキスタンを怖がっているのだろう?」
問いかけられた私は、「そういう部分もあるが」と前置いて続けた。「パキスタン人は、フレンドリーで、カインドリーで、ジェントリーだ」。
伝えたのは、これまでの旅で感じた、正直な思いだ。白髭は嬉しそうに深く頷いた。彼が、周囲にいた人々にその言葉を訳して伝えると、皆が笑顔になる。白髭はアフガニスタンの紙幣をくれた。数字の「1」が入っている。他の人たちも、次々と「500」や「1000」の数字が入った紙幣を私に持たせた。聞くと旧札のようだ。私は10円玉や5円玉などを出して交換した。交流が楽しくて、目と鼻の先のアフガニスタンに行きたい衝動に駆られた。
しかし、簡単にそうすることはできない。トライバルエリアの探訪はここまでだった。引き返す道中、車内から賑わったバザールを見た。「ランディーコータルバザール」という名の、密輸品の一大市だという。しかし、ピプシから「ここで降りることはできないんだ」という残念な答えを返される。
道中、何度も「ダラシティ」。続けて「プリーズ」と繰り返したが、ピプシは首を横に振る。なんらかの事情で、旅人を連れて行くことはできなくなっているのだろうか。護衛つきの車の中だ。私にできることはなく、諦めるしかなかった。
●日本へ
期待していたよりも、トライバルエリア見物はあっさり終わってしまった。銃の街ダラに辿り着けなかったことには悔いが残るし、自由に自分の足で街中やバザールを歩いてみたかった。しかし、満足感もあった。トライバルエリアには、車が走り、人々が生活を営む、当たり前の光景があった。ただパキスタンとアフガニスタンの法律ではなく、独自のルールで運営されているだけだ。
カイバルゲートに戻ったのは15時。ペシャワールの新市街で下ろしてもらった。代金は、ピプシの警護に300Rs(約600円)、タクシーに1000Rs。高いのか安いのか、この辺りの相場観は、もうさっぱりわからない。
新市街で、この旅初めてファーストフードで食事を取り、預けていた荷物を受け取りに宿へ戻ったのが16時。その後、呼吸困難になりそうなほど混み合ったミニバスに3時間も乗るという我慢大会をし、ラワールピンディーへ。そこからタクシーでイスラマバード国際空港へ着いた。
ここから先は蛇足である。
私の帰国便は、明朝というか深夜というか、午前3時40分発だ。日が変わるまで空港の中に入れてもらえず、外で待機することになった。
ここで、メクフリくんというイラン人の若者と、なかなか面白い時間を過ごした。イスラマバードの大学に通っている学生で、空港に到着する姉を迎えに来たという。暇そうな日本人に絡まずにはいられないほど、彼も暇だったのだろう。
中国人の彼女の写真を見せて自慢してきたり、日本語や日本の歴史を知りたがったりと好奇心旺盛で、エネルギッシュだ。早い口調でまくし立てるが綺麗な英語で、聞き返すと、要点を掴んだわかりやすい説明をしてくれる。日本の「武士」の家族の絵を書き始めたので見てみると、これも上手い。なんだかよくわからない友情を結んだ。印象深い相手になった。
日付が変わって29日の午前0時。空港に入って、残っていたパキスタンルピーを手元に110Rsだけ残し米ドルに替えた。127ドルになった。帰国してから計算したら、12泊の旅で使ったお金は、行き帰りの国際線の料金を除き、キャッシング分を含めて計462ドルだった。最後に空港内で使った土産代なども含めてこの額だ。日記には「宿を節約などすれば、半分で充分行ける」とある。やはり、お金のかからない国なのだ。
飛行機は経由地のドバイへ。ドバイの空港で乗り換えのために滞在した時間は、驚愕の20時間。空港内にホテルはあったが、一泊260ドルもした。その金で、パキスタンで何泊できることかと思えば、とても泊まる気にはなれない。外にも出られなかったため、乗り換え客のために3食無料で食べられる設備を利用したり、日本から持ち込んでいた夢野久作の「少女地獄」を読んだり、土産のグラッパを買ったりして時間を潰した。空港内を流民のようにさまよって、眠ったり起きたりを繰り返した。スピーカーから定期的に流れるコーランが気分を高め、時に静めてくれた。首から下を部分的にでも露出している女性を久しぶりに見たことで、少し元気になった。
30日の朝3時頃、ようやくドバイを発つ時刻になり搭乗口へ行くと、いったいどこにいたのやら、日本人ばかりだ。個人も、ツアー客もいる。日本行きの飛行機だから当然なのだが、私は無性に、説明するのが難しい嫌悪感のようなものを抱いた。日本人が日本語で話をしているのを聞くと、ムカムカしてくるのだ。酷い話である。
嫌だな、パキスタンに戻りたいなあと思いながら搭乗。関空で乗り換え、羽田に着いたのは30日の22時半だった。
深夜に東京・中野の家に着き、まずビールを飲んだ。日記の最後にはこう書かれている。「AM1時過ぎに家に着く。短すぎるパキスタンだった。これで気楽に酒が飲める国なら言うことなしだ。家で飲んだバス・ペールエールの美味かったこと!」
おしまい。(了)
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