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父の死から、人生の余裕を思う

2024年になってから早10日が経過しましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。本年もよろしくお願いします。新年早々、ショッキングな出来事が続いてしまっています。被害に遭われたみなさま、心からお見舞い申し上げます。

このような記事はnoteでは敬遠されがちですが、昨年の9月、73歳になる父が亡くなりました。1年半、がんと闘病していました。その前からずっと体調が悪かったそうですが、ようやく病院に行ったら色々と悪いものが見つかってしまった、という闘病生活の始まりで、本人はもちろん大変だったと思いますが、家族も同じように大変でした。がん患者の家族は第二の患者であるという言い方をよくされますが、その通りでした。正直、2022年〜2023年の夏までは本当に心身ともにきつかった。


父の病気が見つかってからというもの、余裕は全くありませんでした。常に頭にもやのような心配事があって、仕事をしていても、時間があってドライブに出かけても、常に何か心に引っかかるものがあり、なかなか霧が晴れない峠道を恐る恐る走っているような感覚。母も現実から目を背けたかったのか、毎日の看病に疲弊してしまっていたのか、さまざまな手続きに手をつけようとしていませんでしたので、保険の手続きや病院とのやりとりなどは全て私が行いました。病院や診療、がんや薬のこと、保険のこと、本当にこの1年で詳しくなりました。

父は頑固な性格だったため、あらゆる部分で理解に困る選択をし、感情をあらわにしていました。最期の方は治療をしなくても良い、という選択を自分でしたにも関わらず「見捨てられたのだ」と怒っていました。人間はこのようなことになるのか、と本当に記憶に残る数ヶ月でした。しかしながら、最期は家族に負担をかけずにあっという間に逝ったことを考えると、なかなか父らしい最期だったのではないかと思います。葬儀や相続など、大抵のことも私が行い、無事に完了しました。確かに寂しい気持ちはありますが、やるべきことは全てできた自信があるので、後悔という気持ちはほとんどありません。


今の日本は、確かにがんのことや薬のこと、治療方法のことは十分すぎるほどの情報を簡単に手に入れることができます。しかしながら、治療が期待できなくなったあとの時間についての情報が、あまりにも少ない。人生の最期が急にわからなくなる。今後どのような経緯を辿って、どのようなことに注意を払うべきなのか、ほとんどわからないまま、不安な毎日を過ごすことになり、想像以上に疲れます。私の本業はデザイナーですが、そのような情報や表現をもっと行うことはできないかな、と感じています。

そして最期の1年間、私は父の写真を撮ることが全くできませんでした。心の底から写真が好きな人は、自分や家族、友人の生活や人生を撮り切ろうとしますが、私はそうはできなかった。父の写真どころか、カメラをあまり触っていません。「そこまでの趣味だったのではないか?」と気がつきました。そこまでの趣味の人は、写真やカメラは、人生や生活に余裕がないと楽しめないのです。なんとか気を紛らわそうとしてカメラを買っても、レンズを買っても、昨年は全然楽しむことができなかった。シャッターを押す回数も激減します。そうすると写真が下手になります。カメラや写真自体の熱が下がります。そのループになります。


何事も余裕だなと思います。余裕がないと趣味も仕事も楽しめない。それは人生を楽しむことができないということ。今後は、少しでも余裕があって、足掻かない人生を生きたいなと思います。


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