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「観察」という習慣から感じたこと

生家の前には公園がありました。

近くの高校生がバスケ部の練習をしており、

私はいつも観察していました。

何を見ていたのか?

あまり覚えていません。

木の配置を上手に使って、

パス回しやドリブルの一連のプログラムを

こなしていたようでした。


小学生の女の子が、

高校生の男の子を、

木の影からじっと見ていたのですから、

なんらかの誤解は生じていたようです、、、笑。


でも、お目当ては誰もいませんでした。

ごめんなさい。


他のアーティストさんの

アトリエ探訪も好きです。

個性がぎっしり詰まった空間は、

キラキラ、ワクワクがぎっしり。

実演とかしてくれると、

永遠に見ていられます。


ただこの場合でも、

使っていた画材とか、タッチとか、

ディテールはまったく記憶に残っていないのです。


これは若かった自分には、

観察力がないと感じてしまっても、

仕方ないと思います。


今でも思うのですが、

私は何を見ていたのかしら?


この「観察」という行為に、

相当な時間を費やしている気がします。

気がつくと、ジーッと見ているわけですから。


最近、断片的に気づいたことがあります。

それは、ひとつは自分が、

独特な世界のとらえ方をしているということ。

気になるポイントが、

大きく他の人とずれているということです。

目に見えないものを感じていた可能性もあります。

まぁ、そのことで無視されたり、嫌がられたり、

いろいろありましたけど、、、、。


もうひとつ。

これは今だから気づけることなのですが、

こうして不思議ちゃんとして観察してきた事柄は、

すぐ直後に言葉ではアウトプットできなくても、

自分のなかにある引き出しに、

ぎっしり詰まっているようなのです。


こんな、のんびりちゃんな私ですが、

実は、臨機応変の対応力、判断力、瞬発力に自信があります。

いわゆる現場力でしょうか。


驚くことに、自分が未体験の事柄に関しても、

なぜかビジョンが浮かんできて、

解決方法が見えてきます。


後から、

「なんでそんなこと知ってたんだ?私、、、」

みたいなことが、時々あります。


もう90歳に近い農家のおばあちゃまに、

「Makiさんはなんでも知っているのねぇ」

なんて、予想外のお言葉を頂戴したり。



このnoteで知り合えた方々の文章を読み、

同じような生きづらさを感じていらした方々と出会い、

ホッとして、なんとも言えない安心感を得ています。

本当に嬉しいことです。ありがとうございます。


と同時に、

同じようだけれど、ひとりとして同じではない。


そのこともとても重要だと感じています。


日本ではありがちなのですが、

画一的な社会を望む人たちによる激しい排斥は、

まったく好ましくないものですね。

されてきた自分だから、

この先も絶対したくないというのが

本音でしょうか。


土の時代の名残で、

まだ至るところに今でも残っていますが、

こんなの辞めましょう。はい。


ひとりひとりが

世界をどのように感じ、見て、捉えるのか?


どんなだっていいじゃん!


だって、人と違って当たり前。


むしろ、人と違えば違うほど、

それはすばらしい個性なのだと、

自他ともに認め合い、評価しあいたいものですね。


「自分の個性を守り、安心しながら、最大限に発揮すること。」

(特に繊細さん。私、繊細さん応援団なので。ー)


これって、私にとっては、永遠のテーマだと思います。




今日も、愛と祈りと感謝をこめて♡

写真は、北方民族博物館より。木偶。





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