大坂の抑えの大城郭「尼崎城」をご紹介
こんにちは、ゆうさいです。
復元された後も、なかなか足を運べていなかった尼崎城。
この度、阪神電車へ乗り継いで、やっと登城してきましたのでご紹介したいと思います。
尼崎城は大坂の西の抑えとして、甲子園球場の約3.5倍の広さに加え、3重堀や4層の大天守があったということからも、幕府がいかにこの城を重要視していたかがよくわかります。
当時の絵地図をみていると、城あそびオンライン講座で学んだ今治城の縄張りと形がなんだかよく似ている...。
この尼崎城ですが、1617年に幕府が徳川譜代の戸田氏鉄に命じて築かせました。
氏鉄といえば、以前ご紹介した美濃大垣城の大垣藩初代藩主としても有名ですね。
この築城工事と同時に、中世からあった港町も取り込み城下町の整備も進められました。
また神崎川分流の拡張改修築堤も行い、氏鉄はこの地の治水事業での功績も残しています。
戸田氏が美濃大垣藩へ転封となると、遠江国掛川藩より青山幸成が5万石の加増を受け尼崎城へ入りました。
幸成は、藩政の基礎構築のため、文学の奨励や大庄屋制度を制定。
さらに積極的に新田開発も行います。
戸田氏から青山氏時代初期の尼崎藩が統治していた地図が現在の尼崎城内にも展示されていますが、西はなんと神戸市須磨区のあたりまでが領内となっていたのには驚きました。
青山氏が4代で信濃国へ転封となると、再び遠江国掛川藩より松平忠喬が尼崎藩主となり尼崎城へ入城しました。
この松平家がその後も7代160年間にわたり尼崎を治め、明治の廃藩置県を機に廃城となりました。
本丸の石垣は、尼崎港修築のために防波堤の石材として利用されたとのことです。
現在の尼崎城は、家電量販店旧ミドリ電化の創業者である安保詮さんが、「創業の地に恩返しがしたい」という熱い想いから、私財を投じて尼崎城天守を建設し尼崎市に寄贈されました。
城内には、登城者が楽しみ学べるよう沢山の工夫がされています。
すごく面白いアイデアが凝縮された展示内容でしたので、お城の知識だけでなくその工夫も勉強になりました。
また、子供さんも喜ぶであろう刀や鉄砲を使ったゲームなども準備されていますので、休日にでもご家族で足を運んでみてください。
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