PERFECTじゃないDAYSでもいいか

思い出したように、またnoteを開けてみた。
最後にnoteを書いたのが、素晴らしき世界を見た後で
そして今回書きたいと思ったのが、PERFECT DAYSを見たからだった。
どちらも役所広司の主演だったことに気づいたのは今。

年始から能登半島の地震が起きて、羽田空港でクラッシュが起きて
どうなるのか、、どうしたらいいのか。
周りはインスタグラムやXを使って、支援だ、心配だという投稿をたくさんしていて
投稿をしない自分はまるで悪者のような気分になってくる。
SNSで呟かなくても、私は心配しているのだ。
けれど、自分自身が一番自分を信じていないからだろう、心配になってくるのだ。
だらだらと年始を過ごしていた中、いきなりPERFECT DAYSを見に行こうと思いたち
上映30分前には映画館は残3席、前から2列目で鑑賞した。

まず、音楽がいい。sitting on the dock of the bay やperfect days、Pale blue eyes、そしてFeeling good
あえてリマスターではないような、カセットから出ているような音質もまた味が出ていた。
音楽と文学を楽しむ主人公は、ささやかな幸せを見つけ出す天才であり、自分自身の最大の理解者である。

映画冒頭から、ワーグナーの歌劇(だったろうか?)を読んでいて
そこに出てくる影という言葉が歩き出し、映画の中でも影と光が非常に重要なキーとなっていく。
主人公がライフワークとして続けている、木漏れ日の写真を撮る姿やその写真がよく出てくるのだが、それは写真をメタファーとして、彼の清掃員として生きる世界(一般にはこちら側が影とされるかもしれない)、彼の姪や妹など繋がりを絶ってきた人が生きる世界にも当てているのだろう。

木漏れ日は光と影がないと見れない現象だと最後にも掲題されるのだが、
いつでも世界は光と影があり、繋がっているように見えて繋がっていないという示唆を促しているように感じた。
それは現実の世界でも言えることで、全てを同じ秤で全員が同じように感じることはできないけど、思いやることはできる、お互いの幸せを尊重することはできる。

何かをすることは素晴らしいことだけど、何もしないことが悪いことではない。
沈黙は金、雄弁は銀というように、自分が感じるままに、思うように
言わなくとも、自分の世界を持つことの大切さを感じた。

昨年から新年も、PERFECTに感じない日々が多かった。
けど、それでいいのか、
そう伝えてくれるように、PERFECT DAYSの映画はPERFECTじゃない日もいい日になると教えてくれた。


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