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山岡鉄次物語 父母編1-6

〈 奉公6〉涙と今川焼

☆頼正は大八車を引いていた。

時は昭和14年、日本と中国の間で全面戦争が行われていた。
支那事変(日中戦争)は昭和12年に勃発していて、時代の流れは悲惨な大戦に向かって転がり始めていたのだ。

支那事変は日中両軍が衝突した盧溝橋事件を発端とする。

日本は近衛内閣が北支那派兵に関する政府声明を発表し、事件を北支事変と呼んだ。
今回の事件は中国の計画的な武力による抗日であると断定し、日本は中国の武力に対する帝国政府の自衛権発動であるとした。

そして、中国共産党と蒋介石が徹底抗戦を決意したことから、中国軍による日本軍と日本人居留民に対する攻撃へと事態は進展した。
この後第2次上海事変が勃発し、戦線は中国大陸全土へと拡大して、日本と中国の全面戦争になっていった。

宣戦布告して正式な戦争が始まると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じて、交戦国に対する軍事的支援が出来なくなるので、日本も中国も宣戦布告を行わなかった。
日本と中国それぞれ、宣戦布告を行うことは軍事的支援を受けられなくなるリスクがあったのだ。
特に中国は、米国の国内法である中立法の適用を避けたかった。米国は日本に対して中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事もあって発動は見送られた。

支那事変が長期化すると、米国と英国は蔣介石の率いる政権を公然と支援し、ソ連は空軍を送り中国軍を援護した。

昭和16年の日米開戦とともに、蔣介石政権は、日本に宣戦布告し、日中両国は正式に戦争へ突入した。この後支那事変は太平洋戦争(大東亜戦争)の一部となる。


この頃の中国は中華民国と云って、袁世凱による北京政府の後、中国国民党による南京国民政府の時代だった。
軍閥等の勢力が各地で実効支配をしている状態で、国内は統一されていなかった。

日本は汪兆銘政権率いる南京国民政府を中華民国の正統な政府として承認し、支援した。
蒋介石率いる従前の南京国民政府は重慶へ撤退したので重慶政府と呼んだ。

この先、太平洋戦争後の中国は中国国民党と中国共産党の間で内戦が起こり、これに勝利した中国共産党が昭和24年に中華人民共和国を樹立する。
南京国民政府は崩壊するが、蒋介石を中心とする国民党勢力は台湾島へ移り、台湾国民政府による中華民国を再構築する。


さて、頼正の方は大八車を引いている。

この頃、東京では自動車がほとんど走っていなかった。
戦時の統制経済が始まっていたからなのかもしれない。

板橋から新宿の間は平坦な道が続いているが、目白の辺りには長い坂があった。
頼正は登りの坂道を通過する時には、大八車を蛇行させ坂道を斜めに上り、やっとの思いで乗り越えていた。

「花も嵐も踏み越えて~。」坂道を上りながら、頼正は音にならない声で、車を引く力で唸るように口ずさんでいた。
当時流行していた映画愛染かつらの主題歌、霧島昇とミス・コロンビアの唄う旅の夜風だ。年若い頼正でも耳に入っていた歌の出だしの部分だ。
頼正はこのフレーズが好きで、坂道を乗り越える時はよく唄っていた。「行くがオトコの生きる道~。」


大八車は自動車に比べると狭い道に入って行ける利点がある代わりに、坂道を上がるのは大変だった。

ある日、頼正は新宿からの帰りに坂道を息咳切らせて大八車を引いていた。
空腹だったので、坂道を上がるのに力が入らず、とても苦労していた。

突然、楽になったので振り返ると、見知らぬ男が笑顔で言った。

『ぼうず、大変だな。それ、あと少しだ。』

親切なおじさんが大八車の後ろを押してくれていた。

汗まみれの頼正は、人の優しさに感激の涙が止まらなかった。
頼正は汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら大八車を引き続けた。

坂道を乗り越えて、しばらく進むと池袋の駅前は、もう目の前に見えて来る。

駅前大通脇の屋台からは、美味そうな今川焼の匂いが漂って来ている。
もちろん買うお金などなかった。


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