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山岡鉄次物語 父母編1-5

〈 奉公5〉大八車

☆頼正は新しい3年を始めていた。

少し体が大きくなって来た頼正は、大八車で木材運搬を行う仕事をするようになっていた。

現在なら重い木材の運搬を、一度にたくさん運べるトラックをなぜ使わないのか、と疑問に思う。

大八車の話の前に、この時代の自動車事情はどうだったのか。

日本における自動車製造は明治時代に始まり、大正から昭和へと少しずつメーカーが増えて、開発が進み発展して来た。

昭和に入ると個人が乗る自家用車は富裕層の玩具、金持ち紳士の乗物と言われた。
自動車税が車両価格以上に高額で、金持ちしか持てない贅沢品であった。
運転出来る者が少なかったので、自家用車の所有者は運転手と助手を雇っていた。

自家用車の個人所有はあまり広がらず、自動車の8割以上が営業用の車であった。

東京府における自家用車台数は、公用車や企業所有を除くと、昭和5年の数値では個人所有の乗用車1,576台で貨物車438台だった。東京府の普及率は乗用車は714世帯当たり1台、貨物車が2,571世帯当たり1台であった。
それでも、日中戦争の始まった昭和12年頃までには、少しずつ普及していった。


横畑木材にも、主人が運搬用に中古で手に入れたダットサンがあるが、故障してから敷地の隅に置かれたままになっている。

横畑木材での木材運搬は、もっぱら大八車で行われている。

普段の運搬は奉公人の青年が前を引いて、頼正は大八車を後ろから押していた。積み荷が多い時は3人4人と人手が必要になった。
荷物が無くても重い大八車、頼正は積み荷が少ない時は一人で大八車を引く事もあったが、坂道では骨が折れた。

大八車(だいはちぐるま)とはどのような車なのか。

大八車は江戸期から使われて来た総木製の荷物運搬の2輪車で、1台で八人分の仕事をすると云われたのが名前の由来のようだ。
普通2~3人で移動させる重い車だ。

この先、大八車はリヤカーにその役目を引き継いで消えていくことになる。

現在、大八車もリヤカーも道路交通法では軽車両として扱われている。
軽車両は道路の左端を通行しなければならない。
歩行者の通行を妨げなければ路側帯も通行出来ることになっている。

 
さて、頼正の話に戻す。

荷物が少量の時には、頼正一人の運搬仕事が回ってくる。
大八車は荷物がなくてもとても重い車だ。頼正はあまり大八車を引きたくなかった。平らな道なら動き出せば何とかなるが、坂道で止まってしまうと、手に負えない。

頼正は重い大八車を引いて、問屋のある板橋から配達先の新宿までの間を往復する事があった。

何回か行き来している間に、道順はしっかり覚えて、路面の微妙な傾き、癖のようなものが判って来た。
進みやすい道筋を選ぶことで、少しは楽に車を引けるようになった。

移動中の道筋では、いつも顔を会わす商店の人、工場の人たちと挨拶を交わすようにもなった。
頼正は工場らしい建物の前面が広場になっているところに来ると、大八車を止めて一休みすることがあった。
時々、この場所で数人の青年が、のんびり過ごしている事がある。
鋳物工場で働く人たちの休憩時間だったのだ。
顔を会わすうちに、親しく会話を交わすようにもなった。

頼正は身体が大きく成って来たとは言え、今で云う中学生レベルだ。
まだ成長段階の頼正1人では、大八車での運搬は重くて大変な仕事だった。


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