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恋愛アニメ映画マイスターとして『すずめの戸締まり』を語らざるを得ない(※ネタバレ注意)

私の名は、ツユモ。
「恋愛アニメ映画マイスター」を自称し、気の向くままに文章を書くことが趣味の人間である。
さて、そんな大層な肩書きを自ら名乗る者として、現在大ヒット上映中の新海誠作品『すずめの戸締まり』に触れないわけにはいかないだろう。

そんなある種「使命感」のような想いも持ちつつ劇場へと足を運んだ私は、今こうしてキーボードに指を置いているわけだが、かれこれ数十分どうしたものかと途方に暮れている。

その理由は至極単純明快で、驚いたことに本作のテーマが「恋愛」ではなかったからだ。
一応、主人公・鈴芽が草太に興味を持つきっかけ(=物語が動き出す最初の動機)こそ「一目惚れ」ではあったものの、逆に言うとそれ以降は『君の名は。』『天気の子』と比べても、男女の青春としての「恋」や「ドキドキ感」を感じさせる描写は必要最低限に抑えられており、近年の新海誠作品の中では珍しい作風だと感じた。
また、前2作では入れ替わった体で胸を揉む、口噛み酒を飲む、ラブホテルに泊まる、といった性的な雰囲気を感じさせる描写があったが、今作は椅子の姿の草太に接吻する場面くらいしかそういった性愛的な要素はない。そしてその椅子も「口が無い」ことが作中で台詞として明言されており、徹底して二人がプラトニックな関係性を貫いているというのも、今作の一つの特徴かもしれない。

そんな『すずめの戸締まり』だが、一箇所だけ作中で「ドキドキする」といういかにも恋愛的表現が出てきた場面がある。(もしかしたら他にもあるかも…)
それは予告でも使われているが、物語序盤に宮崎から愛媛へと向かう船に飛び乗ることになってしまった主人公が、デッキから見える街並みを前に思わず漏れ出るように呟く場面である。
つまり、今作において主人公は異性(=草太)に対してというよりも、これから始まる冒険へのワクワク感、未来への果てしない希望に対して大きく心を揺さぶられ「ドキドキ」しているのだ。

好奇心も行動力も限界まで振り切っている鈴芽らしさを強調する場面だと感じたが、それでは彼女が草太へ抱く感情、そして彼に固執する理由とはなんだったのだろうか。
これはあくまで仮説になるが、彼女は草太に対してずっと亡き母親の面影をどこかで重ねていたのではないかと私は考えている。
もともと新海誠作品は、ラブコメ的な「男女が恋に落ちる瞬間」をわかりやすく描かず、さまざまな経験を経て緩やかに惹きつけられ互いにかけがえのない存在になっていく作風を好む傾向があるが、鈴芽が最初に草太を見かけた場面でつぶやく言葉が「綺麗…」であったのは特に印象的である。
女性が男性を評する言葉としては珍しく、黒髪長髪でやや中性的にも見える風貌の草太に対し、なぜかわからないがただただ興味を惹かれる状態だったことがここで示されている。

そして記憶がおぼろげではあるが、確か鈴芽は「常世」を見た時も「綺麗」という感想を抱いている。
すずめにとって亡き母親を必死で探してたどり着いた場所であり、母親の形見である椅子を渡された場所でもある「常世」のイメージと、「草太」の第一印象が鈴芽の中で同じ言葉で括られるのは興味深い。
草太は初めて鈴芽と出会った際、命を省みず鈴芽を守ったために腕に怪我をし、そして自らが人知れず人々を守る閉じ師という職業に就いていることを明かすが、これも「草太」という人間が鈴芽が本来母親から受けるはずだった「無償の愛」をもつ存在であることを強調している。
さらに言えば、その後ダイジンによって母親の形見の椅子になってしまった草太は、名実ともに鈴芽の母親と重なった存在になってしまう。旅の中で常に椅子を大事そうに持ち歩き、ときには接吻もしていた鈴芽だが、それは草太に対する愛情表現であるのと同時に、自分の心の中にいる母親へのもう二度と届かない愛情表現でもあったのだろう。劇中歌「カナタハルカ」の中の「君の話す声は母の鼻歌に似てた」という歌詞も、鈴芽にとっての草太と、亡くなった母の存在の同一性を物語るようである。

もう一つ、「綺麗」という言葉で言うと印象的なのは、みんな大好き芹澤の「ここってこんな綺麗な場所だったんだな…」という台詞である。被災地に向かう途中、ふと車を降り丘の上に立った芹澤は、地震によって変わり果てた街並みが再生しつつある様子を見下ろして、タバコを吸いながら思わず漏れ出るようにこの台詞を呟く。それに対する鈴芽の反応は「綺麗…これが…?」というもので、地震の前にあったかつての光景を知っている鈴芽にとってはとても信じられないという二人の間の断絶を示す名場面であったと思う。
個人的に好きなのは、この場面で呑気に「綺麗」という言葉を発した芹澤に対して被災者である鈴芽が激昂したり、必要以上に芹澤を露悪的に描いたり、それによって二人の関係性が何か変わったりするような描写が無く、あくまでフラットに「知っている者」「知らない者」の認識の差を描く場面に留めたことである。
あえて「震災」というセンシティブなテーマを選んだだけあって、被災者のかわいそうさ、非被災者の他人事感、死んだ者たちの無念、何らかの政治的な主張といった要素を必要以上に描くことのない絶妙なバランス感覚の上に成り立っているエンタメ作品だと改めて感じる。

そしてこの場面で大切なのは、「綺麗」という言葉には対象をよく知らないことによる「無知性」が内包されていることだろう。初めて見た草太、初めて訪れた常世、初めて見た風景などなど…
鈴芽は草太と初めて出会った時「貴方とどこかで会ったことがある気がする」と述べるが、その伏線は終盤で回収され、幼い頃全ての時間が混じり合った空間である「常世」に迷い込んだ際に草太の姿を目撃していたからである。「一目惚れの相手に実は幼い頃出会っていた」というのは実に恋愛作品的なロマンチック要素であるが、ここで個人的に意外だったのは、このとき幼いすずめと草太が一言も言葉を交わさず、特に大きな接点を持たなかったことである。一般的な恋愛作品であれば、このとき幼いすずめを草太が守ったとか、大切なものをなにか渡したとか何かしら「思い出」や「印象」を作るのが定石だと思う。(実際、『君の名は。』でも過去の瀧と出会った三葉は、想いは伝わらなかったもののとっさに組紐を渡し、それが二人を繋ぐ「ムスビ」となる)
しかし、今作においては幼いすずめから見た草太という人物は、母親の面影を持った女性の隣にいたただの「知らない人」のままで終わる。「過去にすでに出会っていた」という幾らでもロマンチックに料理できたはずの要素をあえて淡白に描き、映画冒頭で二人が出会った際の「綺麗…」という他人事としての表現を用いたこの展開には、新海誠監督の「今作は恋愛ではない作品にしたい」という覚悟が込められていると感じた。最終的に草太と椅子は分離し、鈴芽は椅子を幼いすずめに託すが、ここから初めて鈴芽は草太を母親の代わりとしてではなく、一人の人間として向き合っていくのであろう。
さらに言うと、恋愛映画的な文脈では最後に電車に乗る草太を鈴芽が見送る場面において、鈴芽が扉が締まるギリギリで飛び乗って草太についていく、という選択肢をとってもおかしくはなかったと思うのだが、環とともに家に帰ることを選んだのも今作のテーマが恋愛ではないことを象徴しているように思えた。

そう言えば、作中で鈴芽は環さんのことも「綺麗な人」と評していた気がするが、鈴芽はおそらく環と大きな口論になったことはなく、物語中盤のサービスエリアの駐車場で思いをぶつけ合った場面で初めて内に秘めていた暗い感情も含めて相手を知ることができたのだろう。
この場面で印象的な「私の人生返してよ!」は、環の言葉として描かれつつも、なんというか震災によって亡くなった多くの人々の無念の想いを背負った言葉のようにも思える。
災いを起こす存在である「ミミズ」も忘れ去られた場所、そしてかつてそこに生きていた人々の「嘆き」の具現化のような存在であるが、そのように考えると、環をサダイジンが操って悪意ある言葉を言わせたというよりも、彼女の体内に溜まった歪み(=暗い感情)がミミズと共鳴し噴出するのを見て、要石として止めようとしたのかもしれないなとふと思ったりもした。

そろそろまとめに入るが、今作において描かれたのは「恋愛」ではなく、もっと広い意味で人が人を想う暖かな「愛」である
朽ちた廃墟をめぐり、その土地の無念を晴らすようにその場所に想いを馳せて戸を締めていく鈴芽と草太の冒険は、「綺麗」なままでいることを必ずしも肯定しない。『君の名は。』の「かたわれ時」や、『天気の子』の「花火大会」「雲の上」といった息を飲むほど綺麗な光景は今作の現実世界にはほとんど出て来ず、むしろ泥濘で転んで泥だらけになったり、川の中に落ちたり、足の裏や服が傷だらけになったり、雨が降ってびしょ濡れになったりと主人公は汚れていくばかりで、唯一本当に綺麗なのは「常世」という幻想世界に限られる。
しかしながら、津波で脚が一本無くなってボロボロになったすずめの椅子が象徴するように、物が古びて朽ちていき、人がさまざまな出会いを経て経験を重ね、少しずつ老いていくことも悪くない、そんなふうに思える前向きな活力を感じられる映画だったと心から思う。
旅先で出会う人たちは皆優しくて何でもないやりとりなのに思わずうるっとしてしまうような場面も多かったし、作品冒頭でさらっと出てきた、環が鈴芽に作っていた手の込んだキャラ弁も、作品をすべて見終わった今思い返すと、巨大な愛を感じるものであった。

上映時間120分超えの大作だったが、その長さにしっかりと意味があり、幼い頃に心に大きな傷を負い「死ぬことは怖くない」と言っていた鈴芽が、さまざまな生き方で歳を重ねた人々と出会い、朽ちた廃墟に宿ったかつての人々の想いを知り、最後に草太とともに「生き永らえたい」と思うまでの道のりがすごく丁寧に描かれていたのも特筆すべきだろう。
本作のパンフレットでは「すずめ」という平仮名での表記方法は、幼い頃の鈴芽を表す言葉として統一されていたが、タイトルである「すずめの戸締まり」も平仮名であることを考えると、この物語は高校生の鈴芽が草太と恋をする話ではなく、震災から止まったままだった幼いすずめの時間が再び動き出すまでの救いの物語と言える。
『君の名は。』もあの震災の記憶を彷彿とさせる「救いの物語」ではあったが、過去に戻って失った命を取り戻すために奮闘する男女が描かれていたのに対し、今作では残酷なまでに命の不可逆性を描いているのは対照的だ。あの世として「常世」という場所を用意し、物語序盤では幼いすずめと母親が再会するような幻想的な演出をしつつも、最終的にそれは未来の自分自身であったことが判明し、最後まで死者の声を聞いたり姿を見たりすることはできない。

それでも、今生きている人々や自分自身が自らの進む道を照らし、誰かの居場所になったり誰かを救ったりすることもできるという希望を描いた美しい物語だったのは確かだ。
震災という重いテーマを扱いながらも説教くささがなく、生きていることのかけがえのなさや、他者の優しさに自然に浸ることができる暖かく幸せな作品だったので、迷っている方はぜひご鑑賞いただきたい、

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