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『藤娘』を考える 

<白梅の芝居よもやまばなし>

 大阪松竹座、菊之助丈の『藤娘』

 辰七月、尾上菊之助丈による『藤娘』を久々に拝見し大いに楽しませて頂きました。
 菊之助丈は大阪松竹座が小さく感じられるほどの存在感の大きさがありましたでした。が、それ以上に印象深かったのが、尾上菊五郎を八代目として襲名する自覚がはっきりとみてとれたことでした。
 どんなところにそれを強く感じたのかと言えば‥。

 その舞台の感想を述べる前に、六代目尾上菊五郎の『春興鏡獅子』に関してまず言及したいと思います。
 六代目の『春興鏡獅子』には、二種類の映像が残っています。
 私たちが六代目の舞台としてまず思い浮かべるのは、小津安二郎監督による記録映画ではないでしょうか。
 国際文化振興会によって日本文化の海外宣伝用映画として昭和10年(1935)に制作されたもので一般公開はされなかった映像です。
 もう一つは、林又一郎氏が旧蔵していた歌舞伎関係の映像の中に残されていたもので、近年発見されたばかりの映像です。
 一昨年5月国立映画アーカイブで「発掘された映画たち 2022」と銘打たれてその映像の上映会があり、私も拝見する機会を得ました。

 小津作品の小姓弥生は、奥女中の品格を漂わせるものですが、それに比べ林又一郎氏旧蔵のものは、町娘らしさの色濃い弥生で同一役者による舞踊とは思えないほど違った印象をうける舞踊であったことに驚かされました。

 純粋に舞踊を楽しむ立場から言って、どちらにもそれぞれの良さがありどちらがいいとは言いかねてしまいます。
 また、女形がどのように伝統を受け継ぎ発展させてきたかを学び考察し直してみると、どちらにも弥生の人物像として古典と呼ぶに足る歴史的背景をもった演出、描き方であると言えることがわかります。
 どちらが正統であるかなどと、一概に言いがたいと面があるかと思います。

 『春興鏡獅子』は、もともとが明治26年(1893)、九代目市川團十郎の意向により『枕獅子』を書替えさせて上演された演目であることを念頭に置けば、小津氏による映像が単に海外向けに高尚化を図った演出とばかりは言えないように思います。
 一方、生き生きとかわいらしい”娘”を強調する演出は、『京鹿子娘道成寺』が古典舞踊として確立し今なお不動の位置を維持していることからもわかるように、その演出がいかなるところから生まれてきたかと言うことも含めて、役の解釈上あって然るべき演出だと言えるように私には思います。

 『藤娘』に話を戻しますが、今回の菊之助丈の「藤の精」は、この映像に残る六代目の二種類の異なった弥生像を、『藤娘』の中で程よく折衷させた踊りのように私には感じられました。
 単に折衷させたというだけではなく、菊之助丈の解釈した新しい「藤の精」に昇華しつつある舞台であったかと私には思われました。是非再演を繰り返し不動の「藤の精」を描き出していって頂きたいものと大いに期待したく思います。

 初演、二代目関三十郎の「藤のおやま」

 菊之助丈の舞踊に触発されて今回『藤娘』を学び直す機会を得ました。
 古井戸秀夫氏の「藤娘の成立」(『近世文芸』51.1990年)に大変多くのことを学ばせて頂きました。どなたでも手軽に読むことが出来るので、是非読まれることをお勧めします。
 舞踊の『藤娘』の成立だけではなく、歌舞伎における女形発展の流れが概観できる上に、立役が娘舞踊を手がけていく中で「藤娘」が舞踊としての古典性を獲得していく過程を丁寧に考察されています。

 そのご論考の上に、僭越ではありますが、日本の正史では隠されている裏の歴史が暗示されていることをここでは見ていきたいと思います。
 ”物語られる歴史”という視点から、この作品が何を伝えんとして古典性を獲得していくに至るのかに着目して捉え直してみたいと思うのです。

 「藤娘」の初演は文政9年(1826)9月江戸中村座。二代目関三十郎(立役)が江戸のお名残として『哥へす哥”へす余波大津絵(カエスガエスオナゴリオオツエ)』を、義太夫狂言の『ひらかな盛衰記』二番目大喜利所作事として上演したことに始まるようです。
 藤の枝をかついだ女形(オヤマ)にはじまり、座頭(ザトウ)、天神、船頭、奴が大津絵から次々と抜け出て変化(ヘンゲ)していくような趣向の所作を見せました。

 大津絵から抜け出てきた「藤娘」の踊りの詞章には「近江八景」が読み込まれています。初演からカットせずに残されている詞章です。この詞章を残していることがこの舞踊にとって古典性を有することの証明となるのであって、決してカットしてはならない詞章であろうと私は思います。
 近江は「藤原氏」の実質的な祖である藤原不比等(淡海)が天皇より封じられた国であることに注目すべきだと私は考えます。
 藤の花をかついだ(かたげた)娘は藤氏であり、藤原氏の背負ってきた歴史を踏襲する人物を暗示しているのだと私は考えます。藤原氏の背負ったものがなんであるかは、ここでは踏み込みませんが。

 また、この人物は男装した近世の「手古舞」のように片肌脱いだ、女性の「傾き者(カブキモノ)」であったとも言えるかと思います。
 藤娘が黒塗り笠をかぶっていることには、やはりここでは言及しきれないのですが、日本の歴史を考える場合、非常に重要なことが暗示されているということだけは、記憶に留めておいていただきたく思います。

 立役である二代目関三十郎が、自分では結果として「娘」を演じ切る芸風まで獲得しきれなかったのでしょうが、何故わざわざ「娘」を演じる必要があったのでしょうか。もしくは、作者は何故あえて関三に「娘」を演じさせようとしたのでしょうか。
 それは、本興行ではなしえませんでしたが、初世中村仲蔵が『京鹿子娘道成寺』を踊ることを望んでいたことと通じるものがあるのだと私は思っています。(※初世仲蔵の道成寺に関しては、渡辺保氏の『娘道成寺』を参照していただけたらと思います)
 

 松に戯れ遊ぶ藤の精

 『藤娘』において、「松」は大変重要な意味を持ちます。
 歴史的に言えば「松」は高句麗(高麗<コウライ>)を表すトーテムです。
 二代目関三十郎が家紋に三階松を使用しているから本曲において松が重要なモチーフになっていると考えることは出来るかと思います。
 ただ私は、むしろ関三の家が「三階松」を家紋に用いたのは、上代から続く日本史の延長線上に自らのアイデンティティーを見いだそうとする思い入れがあったからではないかと考えた方がいいようにも思います。

 能楽舞台の鏡板には必ず一本松が描かれていますが、日本の伝統芸能が常に先人に対する鎮魂や慰霊、顕彰といった要素を持っていることを思えば、”
影向の松”とも言える一本松は、元々「松」に関わる歴史上の人物に対する慰霊や顕彰の心を根本に持つ芸能であることが推測できるのではないかと、私は考えます。
 源氏政権である足利氏に取り立てられた近江猿楽や大和猿楽ですが、同じ後援を受けながら大和猿楽が後世に生き残っていくのには、伝承しようとする動機がひときは強かったからではないかと推測せずにはいられません。

 『哥へす哥”へす余波大津絵』に話を戻す前にもう一つ。
 寺社の入り口などの両脇に据えられる狛犬(コマイヌ)ですが、「コマ」は
「高麗」の訓読みであることに注目すべきだと私は考えます。
 ここでは詳細に踏み込む余裕はありませんが、藤と松が結び付けられるのは日本の上代史における事象を暗示しているからだと思うのです。

 『哥へす哥”へす余波大津絵』は関三の藤娘が「犬」の出現により一瞬にして「座頭(ザトウ)」に変わる趣向が印象深い演目です。
 これは上代の歴史を踏まえた上で、さらに中世から近世にかけての天下統一の過程に関わることが暗示されているのであろうと私は考えます。
 このことに関しても簡単に説明できることではないので、深くは踏み込めませんが、記憶の片隅に留めておいていただけたらと思います。

 短い文章の中では、丁寧に説明出来ない部分の方が圧倒的に多く大変申し訳なく思います。
 ただ、古典として今尚生命を持ち続けている作品には、作る側、演じる側に、深い歴史認識と強い思い入れがあることに注目して頂きたいと思うのです。そうした強い思い入れがあったればこそ、伝統を積み重ね洗練を重ねてゆく原動力になってきたであろうことが、想像できるのではないかと私は考えます。
 そして、時代/\の価値観に影響されながら、後進が自らも挑戦していきたいと思える魅力的な舞台が生み出されて来たのだと思います。古典は、常に再創造を繰り返しながら、常に新しい生命力をもって受け継がれてきたのだということを、改めて考えさせられました。
                     2024.8.20

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