見出し画像

【自己紹介】Vol.1 『正解』を追い求める子



授業中に隠れて絵を描いていたことがあった。

巡回していた先生に見つかったことがあって、全員の前で叱られた。
恥ずかしさと悲しさで


「心臓から血がでちゃうかもしれない」


と思ったくらい痛かった。
そのまま学年の終わりまで先生の顔を見ることができなくなった。



同級生からは名字に「さん」づけで呼ばれることが多かった。
実はそのことで、なんとも表現しがたいひそかな疎外感を感じていた。


それは実際に同級生が一線を引いていたのを分かっていたからだと思う。
「本当の意味」で誰ともつながれない感覚は、もっと前からずっともっていたから。
人と遊んでいるという状態にいても、いつもどこかで気を張っていた。

小・中学校では学級委員・生徒会役員・会長をつとめ、成績も良好。「正解」を実現するたびに賞賛を得た。コンクール、大会、何かにつけて賞をもらうことが多く、部屋には賞状がたくさんあった。

「なんでもできてすごいね」
というクラスメートの言葉にひやっとした。
本当に「すごいね」とほめてくれる人の中に一部、「何、目立ってんの?」という本音が見える人たちが混ざっているのが分かったからだ。「自己顕示欲強いよね」と実際に言われたこともあった。
自分は承認欲求の塊なかもしれないと落ち込んだ。


小学校5年生の時に


「器用貧乏」


という言葉を知る。


「なんて便利な言葉だろう。」


と思った。
「どれだけ絵を褒められても、歌をじょうずに歌っても、相手を不愉快にすることなくその場を安全にしのぐことができる。」
と本気で感動したのだった。

自分をうまく卑下することで、周囲から自分を守れる感覚があった。


外で「正解」を追う一方、自宅では反抗的だった。
両親いわく、小学4年のころには、ひどい悪態をつくようになっていたのだという。


「外面だけはいいんだから。」


と何度言われたか知れない。

「だれかに分かってほしい」という感覚が膨れ上がっていたのだろう。


「どうせ誰にもわかってもらえない」というやりきれなさが常にあった。
抑えつけたものを抱えるように猫背で生きていた私は自分のことをとても醜いと感じていたし、鏡の向こうに映る自分を嫌いだった。
同時に「かわいそうな人だ」と泣いたりした。自己憐憫はそのまま罪悪感につながった。


水泳を習っていた。
2歳からスイミングに通い、11歳まで続けた。
長く通っているので選手コースに入ることになるが、あまりのスパルタ練習に、時にえづきながら通っていた。
気の強いアスリートたちがガンガンぶつかってくる環境も自分に合わなすぎた。話せる友人は1人もおらず、みじめな時間だった。しかも練習は週に6日もあった。

一方で、がっかりされたくない気持ちと申し訳なさで「やめたい」が言えない子どもだった。
「やめたい」と言ったら、罪悪感で自分が壊れてしまう気がした。
だから行かなくても良い理由ばかり探していた。
「いい加減にしろ!」
怒鳴られて初めて、止める切符を手に入れられた気がした。
「他人の意思に依存して決定する癖」は確実に育まれた。

教育や習い事に糸目をつけけずにいてくれる家庭環境だった。親になって、それがどれだけすごいことか知ることになるし
​本来、そんな環境にあるだけで幸福なはずなのだが、当時の私には「与えられる課題」というふうにしか捉えられていなかった。

当時の私は「習ってみる?」と言われたら、とにかく「うん」と答えるだけだった。
それがつねに「正解」だと思っていたからだ。
気がつくと習い事が週に7日、つまり毎日何かの習い事を行っていたこともある。


水泳をやめたのは、バレーボールをしたいと思ったからだった。
クラスで私にはじめてニックネームをつけてくれた社交的な友人がいて、その子が誘ってくれたのが理由だった。
自分にとってははじめての体験。世界が広がる気がしてドキドキした。

水泳の最後の日。コーチはためいき交じりにこう言った。
「新しいことをはじめても、同じように壁は必ずあるぞ。」
その通りだと思った。でも何とかなる気がした。

はじめて完全に自分の意志で選んだバレーボール。
結果的に、その後私は中学~高校まで計8年以上、自分の意志でバレーボール部に所属することになる。

「自分で決めたこと」は、たとえきついことがあってもふんばれることを知った。




【キーフレーズ】

◎申し訳なくて「やめたい」が言えない

◎「自分で決めたこと」は、たとえきついことがあってもふんばれる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?