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自分にとっての大きな物語の終焉

以下グチャグチャで読みにくい駄文が続きます。とりあえず書きなぐったって感じです。ご了承ください。気が向いたら後で編集します...

今年は僕にとっての歴史が終わりを告げた年だ。小学生の頃から観続けてきた新劇場版エヴァンゲリオンと、高校時代の青春をともにしたFate/stay nightのアニメシリーズも完結をした。

今日(正確に言うと昨日だが)Fate/stay night  heaven's feelの第3章の再上映を1人で観てきた。映画自体は去年の夏頃には公開していたのだが、その当時はどうしても観ることができずにいた。第1章、2章は高校時代にほぼ公開当日にオタク友達と観に行ったことを思い出す。あの時はすべてが永遠だった。この物語が終わるときまで自分はこの作品に熱中し続けていると思っていたし、この友人関係もずっとこのまま維持されるとも思っていた。しかし、そうかんたんなものではなかった。高校時代なんてたった数年前のことだ。でもその数年自分の中で何かがゆっくりと、だけれども深いところまで侵食され変わっていった。

第3章を見に行くにあたって復習をしようと久しぶりに2章まで見返した。そこで僕はある異変に気づいた。同じ映画を観ているはずなのに別の映画を観ているような感覚に陥ったのだ。なんでこうなったんだろうと考えると、当時はできなかったキャラクターへの感情移入ができるようになっていたのだ。特にそれを感じたのは間桐慎二というキャラクターだ。間桐慎二は魔術師の家庭で長男として生まれ、間桐家の後継ぎの筆頭だったのだが、本人に魔術の才能がないために妹の力を借りながらやっとこさマスターとしてサーヴァントを従えているというキャラクターだ。才能がほしいのにない、そのため妬み、恨む。妹はもちろん、友人である衛宮士郎のことも。衛宮士郎は弓道の才能がありながらも、腕を怪我するとそこで後腐れなくやめてしまい、学校や弓道部のお手伝いをするようになる。才能や素質といった物を持っているのにも関わらず、しがみつくわけでもなくそれを簡単に手放してしまう。そんな士郎が慎二にとっては妬ましく感じたのだろうと思える。

僕はこのキャラクターの行動は当時全く理解できなかった。他社からの善意を受け入れられない姿は非合理に見えていた。高校時代、勉強がそこまでできなかったわけでもない僕は「できない人間」ということがあまり想像できなかったのかもしれない。とりあえずいい大学に行けば何にでもなれる。そう思っていたからかもしれない。でも大学に入って僕にはなにもないと気づいてしまった。現状を肯定できないために過去を後悔し、やることを未来へ先送りにしている。今に生きていないのだ。高校受験、大学受験も「次のステージに行けば何かが変わる」と今を変えるのではなく、未来に先送りにしていた。社会人というステージが近づくにつれそのツケが返ってくる。そのツケを背負うだけの覚悟もなく、虚構に生きながら過去を嘆く。

すがってきた、共に過ごしてきた、大きな物語が終わる。これは自己の終焉でもある。

僕には何もできないだろうと思いつつ、なにか与えたいと思う自分。なぜ与えたいか。自分のためである。

限られた時間の中で僕はしあわせに生きることができるだろうか。満足の行く人生を生きられるだろうか。今現在幸せだろうか。今に生きているだろうか。


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