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対人援助とコンパッション〜コンパッションと5つのエッジ・ステート(第1回)

ユースワーカーはじめ対人援助者の人々が大きく関心を寄せることに、「私は人とどう関わるか?」があるでしょう。

これは、熟達の道を辿れば辿るほど、単にスキルを身につければよいということではなく、「自らを見つめ、在り方を磨く」ことと不可分であることを痛感するようになります。

人間関係にも、作法があります。

その中でも「私」の存在をどう活かすか?ということは、何かを「する」「成す」よりもっと手前にある、人間関係におけるもっとも基本的な命題であり、また、終わりなき探求の旅でもあると思います。

その道を照らす重要な考え方のひとつが「コンパッション」です。

参考図書は、以下です。

コンパッションとは

コンパッションとは何でしょうか。
上記書籍の日本語版序文の筆者、木蔵(ぼくら)シャフェ君子さんは、このように記述しています。

このコンパッションを育む方法を解明した本書の著者、ジョアン・ハリファックス博士は、世界的に著名な人類学者、社会活動家であると同時に、禅の僧侶でもあります。(中略)

コンパッションとは、日本語では一般的に「慈悲」「思いやり」などと訳されることが多い言葉です。当時の私もそれ以上のイメージを持っていませんでした。

彼女は、「コンパッションとは、自分であろうと他者であろうと、その悩みや苦しみを深く理解し、そこから解放されるよう役に立とうとする純粋な思いである」と力強く述べました。さらに端的に言えば、自分自身や相手と「共にいる力」であると。そして本当に役立つには、ときには厳しくNoと言い、役立たない手助けや助言は控え、ときにはただ見守るしかできないことを受け入れることでもあると、本書のような様々な実体験のストーリーを交えて話してくれたのです。

『コンパッション』日本語版序文 より

上記で明らかなように、コンパッションは「自他に対する純粋な貢献の思い」であると同時に、「共にいる力」、すなわち自分自身を「居ること(実存)」に振り切ったパワフルな行動でもあります。

個人的に、コンパッションは安易に「慈悲」という言葉でくくって理解しない方がよいと思っています。なぜなら、それは辞書によっては「憐れむこと」と説明されているものがあるからです。
これだと「可哀想だと思うこと」を彷彿とさせ、コンパッションが「〈可哀想ではない私〉が、〈可哀想と自らが定めた人〉に対して、可哀想だという気持ちになること」と理解されてしまうおそれがあると思っています。

もちろん自分として、「慈悲」と「憐れむこと」は同義だと思っていませんし、それらそれぞれは、元来もっと本質的な概念に違いありません。
しかし、そのことと一般的な理解のされ方は別であり、周囲とのミスコミュニケーションを防ぐためにも、別の言葉を持ち出して理解しようとするよりも先に、「コンパッション」そのものを知ろうとする態度が正道だと思っています。

なお、コンパッションという「力」が向かう先は、他者だけではありません。自分にもです(とりわけ、今日それを「セルフ・コンパッション」と呼ぶこともあります)。
これから下でも記述していきますが、コンパッションには、その力を発揮させすぎることによる「反作用」とでもいうべき負の側面があります。

実際、他者に対するコンパッションが不必要に過剰であると、自分を大切にできなくなることがあります。
同様に、自分に対するコンパッションが不必要に過剰であると、他者を大切にできなくなることがあります。

これは、自分や他者を「対象化(人間を物のような存在、また外側から操作できる対象として取り扱うこと)」してコンパッションを発揮しようとするから起こる事態である…、ということもできます。

ちなみに、この人間関係における「対象化」の問題は古来から論じられてきており、M・ブーバーの名著「我と汝・対話」が特に有名です。

人間関係は、文字通り「関係」ですので、人と人がつながり合うことそのものだ、ということもできます。
よって「私とあなた」はもともと相互補完的で全体的な関係なのです。

しかし、対人援助職をはじめとした「他者のために何かをする・したいと思う人」であればあるほど、「〈私は〉何をするか」という視点で日々の実践を積み重ねることになるので、それに伴って〈他者〉への影響を考慮することからも逃れることはできません。

ここに、人間関係を「する-される」に単純化してしまう「罠」があると思うのです。

「する-される」という「能動-受動」の関係にとらわれると、ともすると「してあげる-してもらう」という依存的な関係に発展します。
それが病的になると「してあげれていない-してもらえていない」という不健全な関係に進行するのではないでしょうか。
コンパッションは、そのような可能性をも孕む、一歩間違えるとダークサイドに落ちてしまう「際際の」実践であるということもできます。

5つのエッジ・ステートについて

コンパッションの「際どさ」について、ジョアン・ハリファックス博士は次のように述べます。

長年の経験を経て、私はコンパッションと勇気に満ちた人生の秘訣として、内面や対人関係における5つの資質があることに気づきました。
それなくしては、人の役に立つこともできないし、生きていくことも不可能です。
けれども、この貴重な資質は、質が低下すると、害となる危険な景色となって現れてきます。
この表裏一体となる二面性を持つ資質をエッジ・ステートと私は呼んでいます。

『コンパッション』前文:崖からの眺め より

「エッジ」は、ファシリテーションや種々の対人関係技術の体系でも、よく出てくる言葉です。
書籍『コンパッション』の場合、「エッジ」や「エッジ・ステート」を以下のように定義しています。

「エッジ(Edge)」とは、「端」「境界」「(変化が起きる)瀬戸際」「(できごとの)出発点」「優位性」「崖の縁」といった意味があります。
つまり、「エッジ・ステート(Edge State)」とは、(中略)「貴重な優位性にも害にもなる、二面性の瀬戸際の状態」というニュアンスである。

『コンパッション』前文:崖からの眺め より

エッジ・ステートとは、満ち足りた人生を歩み、他者に役立つための基盤である、内面や対人関係における資質のことで、5つあります。
これは、健全に行使すれば、崖(エッジ)の上に立つように、豊かな可能性が見渡せます。

しかし一方で、この5つの資質(エッジ・ステート)は、一歩間違えると害となってしまいます。
それはまるで崖(エッジ)から足を踏み外すような「負の側面」をもっているということです。

ジョアン・ハリファックス博士によれば、5つのエッジステートと負の側面は以下であると説明されます。

(1)利他性:本能的に無私の状態で他者のために役立とうとすること
負の側面は「病的な利他性」。
承認欲求にとらわれたり、相手を依存させてしまったりする状態を指します。

(2)共感:他者の感情を感じ取る力

負の側面は「共感疲労」。
相手の感情と一体化しすぎて自分も傷つく状態を指します。

(3)誠実:道徳的指針を持ち、それに一致した言動をとること

負の側面は「道徳的な苦しみ」。
正義感に反する行為に関わったり、目にしたときに生じる苦しみを指します。

(4)敬意:命あるものやものごとを尊重すること

負の側面は「軽蔑」。
自身の価値観と異なる相手を否定し、貶めることを指します。

(5)関与:しっかりと取り組むが、必要に応じて手放すこと
負の側面は「燃え尽き」。
過剰な負荷や無力感にともなう、疲労と意欲喪失を指します。

『コンパッション』日本語版付録 より表現を整えて筆者引用

次回以降は、このエッジ・ステートと負の側面をパッケージしたものを1つずつ取り扱っていくとともに、それがユースワークをはじめとした対人援助場面でどのように大切になるのか考えていきたいと思っています。

続きます。

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