作品無くしてもの言えず

 作品でしか喋れず、作品でしか動けず。
 という人は一定層いる。かくいう私もそのタイプだと自負している。最近は立場と場数でいわゆる世間話というものが多少出来るようになったが、もともとはかなり無口な方だ。というよりも、「私の話なんて聞いて面白いのか?」という雑念が常に邪魔をして上手く話せない。かといって相手の話に相槌を打つのも顔色を伺い過ぎて出来ない。
 しかし台詞ではどうだろう。他人が思いついた言葉。他人が書いた言葉である。しかしながら、舞台上で発する時それは間違いなく私自身の言葉なのだ。

 「演劇をやっているんですか。じゃあ自己主張が強い人なんですか?」
 と、ある会社の面接で質問されたことがある。面接官はあからさまに嫌味を込めてにやつきながら言っていた。あまりに不躾だ。私はこう答えた。
「自己主張が強い人は役者には向いていません。役者というのは脚本を書いた人の意図を理解し、またそれを演出する人や照明さん、美術さんといったスタッフの見たい絵を汲み取って動いたり話したりする必要があるからです。役者一人では演劇は出来ません。演劇は共同作業なので、人一倍他人の気持ちに敏感で気配りが必要だと思います。」
 面接官は顔色を変えた。後日、最終選考に進んで欲しいとの連絡が来たが私は断った。

 表現でしかものが言えないのは不自由ではあるが、ある程度の責任や立場が、普段着ている人格という着ぐるみを捨てて発信出来るという良さもある。作品を通すことによって作者本人は一度乖離出来るからだ。自分の口では言えないことを、台詞として架空の人物の口から言わせたり、あるいはこれはフィクションですよという名目の元に堅苦しいモラルをぶち壊せる。言葉に出来ない思いは美術や音楽にすることで形を手に入れる。

 疫病流行下ということもあり、表現の世界は生活必需品ではないと切り捨てられそうになっている。しかし忘れないでもらいたい。演劇、音楽、美術や文芸、そういった作品でしか気持ちを伝えられない人々がいて、またその人達が生み出したものによって、作者自身だけでなく、鑑賞した人の命も救われうるということを。

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