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建築生産の歴史と展望(後日談)【その3】

この記事は「建築生産の歴史と展望」の論文を執筆した2人が、とりとめもない雑談をしつつ論文の内容を振り返るという対談です。
今回は、全3回のうちの第3回です。
前回の記事はこちら:建築生産の歴史と展望(後日談)【その2】

登場人物
押山玲央 / Reo OSHIYAMA
株式会社白矩 代表取締役、東洋大学非常勤講師

中村達也 / Tatsuya NAKAMURA
ゼネコン設計部

学問と実務が互いに参照しあう関係性

中村:ところで、我々はよく古阪秀三さんとか草柳俊二さんを参照していて、こうやって話題に上ることも多いよね。彼らはアカデミズムの視点から建築生産を論じていて、我々は基本的には実務の視点から論じている。僕は、その視点の違いによるギャップみたいなものを感じることが多いんだけど、どう思う?

押山:それはあると思うよ。この間出版された志手さんの本にしてもそうだけど、実務で行われていることを体系的に整理する、っていうのが学問のやり方だよね。一方で実務は、体系化されているかどうかに関係なく、時間軸に沿ってやるべきことをどんどん消化していかないといけない。例えば「フロントローディング」っていう手法一つとっても、実務の世界で合理性を追求していった結果、そう呼ばずとも自ずとフロントローディングみたいなことが実現されている場合はあると思う。一方で学問の場合は、そうやって実務の領域で既に行われていることに「フロントローディング」という名前を付けることで体系化する。実務の側からすれば、自分たちがなんとなくやっていたやり方を「フロントローディング」という名札を付けられることで認識しやすくなるかもしれない。そうやって学問と実務が共存しているっていう理解でいいんじゃないかな。

中村:8月に建築学会に提出して査読で不採用になった論文に対するレビューを見て思ったのは、学問は「言葉」の世界なんだよね。すごく当たり前なんだけど。

押山:論文に対するコメントっていうのは「述べられている知見は、フロントローディングや生産設計に関する従来の研究の範囲内で、特に新規性が認められない」っていう査読コメントのことね。

中村:そう。表面上だけみれば僕らの論文は確かに、「生産設計」とか「BIM」とか「フロントローディング」とか、よく知られた分野に関する従来の研究をつぎはぎしたものではある。それは査読コメント通りだと思う。しかし、従来の研究をああいう風につなぎ合わせて、現実の実務に応用できるロジックにまで落とし込んだ文章とか論文っていうのは、恐らく従来の研究の中には存在しなかったと思うんだ。

押山:そうだね。さんざん色々な本や論文を読んで、ドンピシャのものが見つからなかったから、自分達でああいう論文を書いたわけだし。

中村:しかし、それは学問の世界では「新しい」ものとして認められなかったんだな。従来の言葉の枠組みを書き換えるような概念を、何でもいいから「新しい言葉」として提示しないものは学術的な新規性として認められないってことなんだな。あと、これも査読コメントにあったけど「提示されたアイデアに対して有効性を実証しなければ論文として認められない」っていうコメントもあったよね。

押山:あったね。どういう意味なんだろうな。

中村:これはすごい違和感があったんだよね。というのも、建築における実証性って「実際につくる」しか有り得ないと思うんだ。僕らの論文では、実施設計と生産設計が融合したようなBIMの使い方を建築業界の産業構造や歴史を踏まえて提案したわけだけど、それを「実証」するには実際のプロジェクトを自分たちのスキームで実践するしかない。けど僕らは大学にも属さず企業の力も借りず、コネもなく完全に独力で研究しているわけだから、そんなことが出来るわけがない。つまり、僕らは論文を発表する場所を間違えたってことで、作戦ミスだったと思ってる(笑)。僕らのやりたいことは実務・実践に耐えうるロジックを作ることであって、建築学会で論文発表するっていう試みじたいが検討違いだったんじゃないか…という反省をしている。

押山:とはいえ、これまで二人の独力で調べてきたことを、これだけきっちり文章にまとめる機会もなかったし、自分達にとっては良い機会になったんじゃないかな。

中村:それは僕もそう思う。すごく良い機会だった。あと、僕ら程度の論文じゃ不採用になるくらい、建築学会の作っている学問の世界は厳密で高度化しているってことだと思った。その高度さが僕らのような部外者にとっての参入障壁になっていることで学問としての価値が保たれる仕組みが、長い歴史のなかで構築されてきたんだと思う。

押山:なるほどなあ。中村くんは、この査読論文不採用の話になるとアツいからな(笑)。

中村:いや本当に(笑)。論文が不採用になったことで素直に良い経験になったと思うし、実務的なものと学術的なものがどう折り合っていくのかということを、身をもって学んだ感じがするよ。

押山:そうだね。学問は現実を整理しつつ時々新しい言葉を生み出して、実務の側はその整理や言葉の中から実践のヒントを見つける。それが更に学問に刺激を与えて新しい言葉が生み出され…みたいに、相互に参照しあうのがいい関係性なんだろうね。

「経験」には時間がかかる

押山:何度か話しに出ているけど、志手さんの『現代の建築プロジェクト・マネジメント』はすごく良くまとまっている本だよね。「これ一冊あればもう自分でわざわざ勉強しなくていもいいな」と思ったよ(笑)。

中村:そうだね。いわゆるPM,CMの手法だけじゃなくて、生産設計の役割とか、今まであまりスポットがあたりにくかった範囲もきちんと言及していて、すごく密度が高いよね。

押山:大学の建築生産の授業も、これ一冊あれば講義いらないんじゃないか?と思うくらい素晴らしい本だよ。

中村:いや、でも大学生のときにこの内容を呼んでもあまりピンとこなかったんじゃないかな。例えば、僕もそうだけど学生の頃には「生産設計」っていう役割があること自体を認識してなかったんだけど、たぶん大学の授業ではぜったいその言葉を聞いているはずなんだよね。でも、学生の時の自分の興味・関心の範囲って今よりもすごく狭かったし、実務の経験もないから、それが自分にとってどう重要になるなのかが分かってなかったんだと思う。

押山:そうなんだよな。たぶん、実地で体験しないと分からないんだろうな。今は実務をやったり起業したりして色々な経験を積んできたから、志手さんの本がいかに優れているかが分かる。これって人間の性であり、人間の限界なんだろうな。

中村:この前、東浩紀さんと成田悠輔さんの対談の中で「経験とコンテンツの違い」っていう話題があったんだけど。

押山:なにそれ、すごい面白そうな話だね。

中村:まず「経験」っていうのは、とても時間がかかるものだよね。文学も時間をかけて読むから価値があるし、映画も映画館で2時間近く拘束されて映像をみることで「映画を見た」という経験を得ることができる。実務も5、6年くらいかけて色々な失敗を重ねることでやっと何となく仕事ができるようになってくる。「コンテンツ」はその逆で、とにかく短時間で知識や情報を詰め込むことを目的にしている。ファスト映画とか、ショート動画とか、まとめ記事とかね。最近では、時間あたりの情報量をいかに大きくするかという意味で「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉もある。でも、コンテンツを浴びるように摂取しても経験には変えられないんだ、みたいな話をしていた。

押山:面白い話だなあ。確かに経験は時間がかかるね。『罪と罰』3巻分の要約を1分動画で見ても、何の意味もないもんな。要約すると「老婆を殺して苦悩する話」にしかならない(笑)。

中村:その話聞いて、相撲観戦ってかなり「経験」に近いと思ったんだよね。一回だけ初場所行ったことあるんだけど、あれって四、五時間くらい取り組みを延々とやってて、しかも一回の取り組みが10秒くらいで終わるのをずーっとダラダラ観てる。その間の観客ってけっこう無駄話したり酒飲んだりしてて、あんまりちゃんと見てないんだけど、横目でいちおうチラチラ見てる、みたいな。相撲を見るっていう目的から考えると無駄な時間がいっぱいあるんだけど、それも含めて相撲という経験なのかな、と思って。

押山:なるほど。野球観戦とかもそれに近いのかもな。野球とか相撲とか映画とか「その場所に行く」って言う行為が伴うと、コンテンツから経験になっていくのかもしれない。体験の前後で人間が変わってしまうのが「経験」、ただ知識を与えるだけの「コンテンツ」は人を変える力がない。

中村:だから、無駄だと思ってもとにかく長い時間をかけて経験しないとわかんないことが、きっと無数にあるんだと思う。この前、僕と似たような仕事をしている大学の後輩に久しぶり会ったんだけど、その後輩が「今のプロジェクトの仕事のやり方は効率が悪い。もっとこうすればいいのに…」みたいなことを愚痴ってたんだよね。で、その愚痴っていうのが、僕が新入社員の頃に現場で働きながら思ってたことと殆ど同じなんだよね。7,8年前の僕と同じことを感じて愚痴を言っている。

押山:歴史は繰り返す、か(笑)。

中村:そう。僕はその後輩に「まあ、これから色々経験積めば徐々に面白くなってくるよ」って言ったんだけど、結局それに尽きるんだろうな、と思った。その後輩も、僕がやってきたのと同じような失敗をたくさん経験すると思うんだけど、それに対して「俺の失敗を繰り返すな。こういうときはこうして…」みたいな講釈を垂れてもあんまり意味ないんだとおもう。それはその後輩の能力の問題じゃなくて、コンテンツと経験の根本的な違いに起因するものなんじゃないかな。

押山:なるほど。良い話だなあ。僕も東さんと成田さんの対談見てみようかな。東さんは「人間の愚かさ」についての論文も書いてたよね。「自分は想定外の間抜けな事故を起こしてしまう可能性がある」という前提に立たないと、本当の意味での事故対策は立てられない、っていうやつだよね。他人の事故の教訓を「コンテンツ」として知ることはできるけど、それを「経験」の水準まで消化しないと真の対策にはならない、ってことなんだろうな。この対談の中ででた結論も「人に寄り添ったデジタルの使い方をしましょう」っていう凡庸な結論だけど、そこに至る思考の経路がやっぱり重要なんだよ。

中村:論文っていうのももしかしたら一つのコンテンツなんじゃないかな。実務は経験で、論文はコンテンツ。さっきも言ったように、大学で勉強していたはずのことを実務を経験してから学び直して「そうだったのか」と思い直す。

押山:そうだね。

中村:DXとかBIMとかっていうのも、ある種の「コンテンツ」だと思うんだよね。DXしたから画期的に業務プロセスが良くなるとか、BIM使ったから建築が美しくなるとか合理化するとか、そんなことはあり得ない。個人がBIMの技術を習得して出来る仕事の幅が広がることはあるけど、そのくらいのものだ、っていう前提で考えないとちょっとおかしなことになると思う。

押山:それは同意だな。BIMをやったことでどう言うふうにその人のものの見え方や考え方が変わったか。DXでどういう風にその人のコミュニケーションが豊かになったか。「BIMをやりました」っていう既成事実が重要視されがちだけどそれってあまり重要じゃなくて、その過程で得られる学びとか発見こそが重要なんだと思う。それでその人が大きく成長したり、全く別人のように仕事ができるようになったら、それこそがDXや BIMの成果と言えるものだと思う。

中村:あとは、BIMが浸透して30年経って、BIMを使うことがスタンダードでCADをやってる人がレアキャラ、みたいな時代が来たら、それは結果的にDXに成功した世の中になったと言えると思う。つまり、会社とか組織の単位であれこれやることよりも、世の中のマスが動いて時代の針が戻せないくらいの勢力になったときこそが、DXとか BIM化が成功したと本当に言って良い状況だと思う。

押山:新陳代謝か。

中村:そう考えると、BIMやらDXやら色々な技術の進歩があったとしても、個人で出来ることって、結局は「技術を身につけながらコツコツ頑張る」ってことでしかないな。地道にコツコツやりながら時代が徐々に変わるのと並行して生きていくしかない。

押山:それはそういうもんなんじゃない?地味で凄さが分かりくいことほど重要だと、僕は思っているよ。

中村:またもや凡庸な結論に至ってしまった気がする。「コツコツ頑張ることが大事」。

押山:やっぱりその結論に至る過程が重要なんだよ。だからその過程であるこの議論をNOTEに載せることに意義がある(笑)。

中村:ところでそろそろ話し始めて2時間くらい経つけど。

押山:二人でよくこういう話をしているけど、もっと全然長い時間話し込むことも珍しくないよね(笑)。

中村:さっき言及した東さんが成田さんとの対談の中で、東さんが「コンテンツをいかに経験に近づけるか」って言ってて、そういう観点からシラスの動画プラットフォームで長時間の対談を配信することの意義を語っていたよ。長時間やると、こんな無駄話ばかりののコンテンツも「経験」近づいていく気がする。

押山:この対談も、無駄に長くすると一人くらいには刺さるんじゃないかな。

中村:そもそも読んでくれる人いるかな(笑)。

押山:多少面白がってくれる人もいるんじゃないかな。個人的には、発言が炎上しないかが心配だけど(笑)

中村:炎上するような内容はあんまりなかったんじゃないかな。あったとしても文字起こしの時に削ればいいか…

建築生産の歴史と展望
1.BIMを活用した設計・生産設計の協業体制の素案
第一部

1.建築生産の歴史と実情【その1】
2.建築生産の歴史と実情【その2】
3.生産設計とプロジェクトの透明性【その1】
第二部
1.日本におけるBIM活用について【その1】
2.日本におけるBIM活用について【その2】/あとがき
後日談
1.建築生産の歴史と展望(後日談)【その1】
2.建築生産の歴史と展望(後日談)【その2】
3.建築生産の歴史と展望(後日談)【その3】

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