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短編小説 『氷の炉』

 真夜中、物音ひとつしない部屋で少年はひたすら机に向かって微動だにせずにいた。眠っているように見えるがそうではなく、強いて言うなら彼は何かを「待っている」のだった。作文の苦手な小学生の夏休み最終日における読書感想文用原稿ほどにしか書き進められていない紙切れ一枚に、少年は自らのこれまでの人生とこれからの人生すべてが結晶される時を待っていた。結局その夜彼に書けたのは「床に耳をつけて聞こえてきたのは自分の声らしかった」というおかしな一文のみだった。
「はよー」
「よー」
「うっわ、顔色悪、また徹夜? いい加減にしないと死ぬよ?」
「いいや、バイタリティに溢れた今こそ、無理を押してでも書くのが芸術に生きる者のつとめ……! そういやお前は今どうなの、次やるのどんなやつだっけ」
「あー、なんかね、宇宙人モノっていうか、SF……世にも奇妙な感じの」
「はー……へー……そうか、宇宙人、宇宙人か、いいな、そのモチーフ。参考にさせてもらっていい?」
「参考? パクリじゃなくて?」
「パク、失礼な! 失、パ、はぁ!? おま、パク……失礼な!」
「複雑な怒り方するなよー」
 一見高校生カップルのように見えるが、平日の朝にカジュアルな服装で連れ立って歩く二人は大学生だった。付け加えると、二人とも男子学生であった。喋り方も容姿もうっかりすると女性のような柔らかさを放つ役者志望と、頭のてっぺんからつま先まで満遍なくうだつの上がらない売文家のオーラをぷんぷんとさせている作家志望という組み合わせ。色々と真逆と言っていい彼等だが、かけ離れているがゆえにそれぞれを「収まりのいい相手」として認識していた。
「じゃー昼ねー」
「おー」
 栗毛の、男にしては長めの髪をパタパタさせながら駆けていく後ろ姿を見送りながら、つくづく生まれ持った物の違いというのは悲しいものだと作家志望の青年、孝介は思った。器量、スタイル、声、人当たり、何もかもがまるで売れる役者になるために備わっているように思えた。自分の名前と一文字被っている孝一という名前へ勝手に親近感を覚え、新入生歓迎会の席で思い切りクダを巻いてしまったのにも関わらず、彼は酔っぱらって論理も何もなくなっている孝介とあくまでもちゃんと会話しようとした。そのことがきっかけで二人は一気に仲良くなった。スタートダッシュで出遅れてしまった孝介は彼のお陰でサークル一のいじられキャラというポストへ落ち着くことに成功した。
「よーす、成瀬。進捗はどんなもん?」
「どうもこうもないですよ……俺卒業までに一本でも仕上げられるのか自信がなくなってきつつあります……」
「そっかー、でも成瀬は才能あると思うよ。何も読んだこと無いけど」
「そりゃあまだ誰にも何も読んでもらったこと無いですからね……先輩って絶対俺を玩具か何かだと思ってますよね」
「そんなことないって。大丈夫。そこまで高く評価してないから、性の捌け口くん」
「いやもうそれは色々と意味が分かんないっす」
 仏頂面で学食のカレーを食べていた孝介の前へ現れたサークルの先輩はひとくさり彼を本気で馬鹿にしているのかそれとも多少の敬意を持っているのか判別しがたい言葉を投げかけて嵐のように去った。一人残された孝介は若干の心の痛さを感じていたが、これもまた芸の肥やしになると自分を鼓舞していた。こうやって、苦手な人間ともなんとかうまくやって、傷ついていくことが面白い物語を作るためには欠かせない。芸術はトラウマからしか生まれない。そんなことを考えながら険しい面持ちで返却台に食器を返しに行った。
 次の講義までかなり時間があったので、孝介は演劇サークルの溜まり場になっている「237教室」という部屋へ向かった。演劇サークルといっても大学公認ではなく、実態はアマチュア劇団のようなものなので本来ならどの教室も使う権利は無かったのだが、何代も前の先輩からこの教室が脈々と受け継がれてきていた。ちゃんと陽光を取り込める位置に窓が付いているにもかかわらず、どうしてかいつ来ても薄暗い。両側の壁に張り付くように置かれた本棚にはびっしりと新旧様々な戯曲、小説、雑誌、CD、よく分からない紙の束、なにかのオブジェのようなものが詰められていた。時々崩れ落ちては適当に入れ直されるので状況は悪化の一途をたどっていた。
「お」
「……ああ」
「次なに? 孝介は」
「フランス語。お前は?」
「キリスト教」
「はー、何やんの、あれって」
「普通に聖書読み解くだけだよ」
「聖書か……なるほどな」
「あっまた盗作しようとしてる?」
「ははは、何を、はははは……」
「うわー、見境ないねー」
 薄緑の饐えた光が充満するここが自分の数少ない安心できる空間の筆頭であることが、嬉しいような情けないような気持ちにいつも来るたび孝介はなるのだった。訪れると大体の確率でいる孝一が最初は不思議だったが、時間割の組み方がそうなっているのだろうことを思えば納得できるというものだった。執筆中の小説を書き進めるためにはもっと適した環境が、例えば落ち着いたカフェのような場所があるはずではあった。だが孝介はあえていつもこういった空き時間にはここに来てしまっていた。孝一の存在がなんといっても彼にとってとても大きな刺激であると同時に余計な緊張を麻痺させてくれるものだったからだ。時々二言三言意味の特にない言葉を交わし、孝一は読書に、孝介は執筆に耽る。決して新しいとは言えない学舎で、音楽室のような防音がされているわけではないのに、なぜかこの時だけは周囲からの音の一切が遮断されていた。実際はどうだったのか分からないが少なくとも孝介はそう感じていた。
「なんかさ」
「……ん?」
「や、なんかさ。最近元気ないね」
「俺? そう? 元から元気なんか特に無いぞ?」
「確かに」
「うん……ちょっと否定してもらえると嬉しかった」
「あ、はは……ごめん。でもやっぱり、ちょっと、最近いつも以上に暗い顔してる気がする」
「そーおかぁー?」
「いつも何時くらいに寝てる?」
「まあ……寝たり寝なかったりだな」
「あ、そうだよね、徹夜よくしてんだもんね。睡眠不足はね、致死率が……ちょっと待って」
 そう言うと孝一はスマートフォンを触り始めた。誰かから連絡でも来たのだろうとまた執筆に戻ろうとした孝介の意識は一瞬でまた散らされる。
「2.4倍。6時間以下の睡眠ばかりの人はそうじゃない人と比べると致死率2.4倍だってよ」
「ふーん」
「ふーん、て」
「べっつに俺長生きしたいとも思ってねーもん。早死にするならそれはそれでいいよ。あんまりさ、身体も心も大事にしすぎると身動きとれなくなるじゃんか。芸術に身を捧げる者である以上、そんなこと気にしてもいられないんだよ」
「芸術芸術って、何、芸術家たるもの傷つかなければ、常に鬱々として心を閉ざしていなければならないとか考えてるの?」
「……何だよ、やけに突っかかってくるな今日は」
「突っかかってるわけじゃないよ。どう考えてるのか知りたいだけ」
 窓を背にしている孝一の表情はいまひとつ孝介からは読み取り難かった。だが恐らくあまり朗らかな状態ではないのであろうことは分かった。
「まあ、そうかも。優れた芸術っていうのは、傷つかなければ生み出せないんだと思う。傷つけば傷つくほど鋭く研ぎ澄まされた物が作り出せるようになっていく、気がする」
「僕はそうは思わない。いいものを作るために一番必要なのは人との交流だよ。色んな人と会って話して、その人たちの見てる世界を垣間見せてもらうこと」
「え? ……同じじゃね。だから、俺が言ってるのもそういうことだけど」
「どこが。だって……」
 孝一はそこで気が付いた。もしかすると孝介にとって他者と交流するということは傷つくことを意味するのではないだろうか。人との関わりの全てが彼にとってはダメージを受けることにつながるのではないかと。特に何に対してというのがある訳ではないが彼は孝介に謝りたいと思った。だが上手く感情を言葉に出来ず、そのまままた会話は止んでしまった。
「あ、そろそろ。じゃ、また後でな」
「……はーい」
 なぜか気まずそうな孝一の様子を訝しく思いながらも、孝介はサークル室を後にした。

 そっくりだ、と孝一は思う。去年、突然死んでしまった年の離れた自分の兄と、今の孝介の様子はあまりにも似てきていた。彼の兄もまた、芸術を志す若者だった。小さい頃から絵を褒められ、自分は画家になるものだと信じて疑わなかった。だが美大を三浪してからというもの、その気持ちに揺らぎが生じたらしい。大学では友達も作らず、ただ一人で黙々と描き続けていたそうだ。家でもほとんど口を利かず、次第に家族に暴力まで振るうようになっていった。最後は、親が自分を精神病院に入院させようと考えているという妄想に憑りつかれ、自ら命を絶った。まるで悲劇の天才画家のように耳を切り取り、銃は無かったのでバッティングセンターで剛速球を頭に受けた。死に際も憧れの存在に倣ったかのように、瀕死の一撃に苦しみながらも丸一日生きていた。「全てが分かった」と言っていた兄の最早何を見ているのか、存在しないものに見惚れているかのような焦点の合っていない目が自分を見つめる映像は孝一の中でいつまでも消えてくれそうになかった。
 何とかして孝介には休んでもらいたい。兄と同じ道を辿ってほしくはない。そう思いながらも孝一には孝介を止める方法など分からなかった。もしそれが分かっていたなら、兄のことだって死なせずに済んだはず。彼には何の責任も無かったが、孝一は兄の死は自分のせいでもあると勝手に思い込んでしまっていた。とはいえ、人の心配ばかりしてもいられない。間近に迫る大会に向けて準備をしなければならない。稽古が始まって二週間余りが過ぎていたが、彼は未だ役をつかめずにいた。台詞がどうしても自分の物にならない。ただ読んでいるだけ、誰かの物真似をしているだけのように感じて、その場にいるのが恥ずかしくて仕方なくなってしまっていた。彼自身はそんな風に思っていたが、周囲からすれば特に問題なく演じられているように見えた。だが当の本人はいつしか自分が半端な状態で舞台に立っていることに罪悪感すら覚え始めていった。そしてそれは今回に限ったことではないのだった。孝一は、孝介の思うような天賦の才に恵まれた人間ではなく、死に物狂いの努力によって、孝介の知る孝一であり続けていたのである。

 宇宙船が不時着し、人間のフリをして暮らすことになったエイリアンの男女。彼らが地球で得た子供は自分のことを人間だと信じて疑ったことが無かった。彼が大学生ほどの年齢になったある日、事件が起きた。一人暮らしを始めた彼が久しぶりに帰省して親子三人でドライブをした帰り道、車は山道の急カーブで死角から突然飛び出した対向車と猛スピードで正面衝突した。気を失っていた彼が意識を取り戻すと、両親は前の席でどちらもぐちゃぐちゃになって息絶えていた。必死の思いで悪い夢だと思い込もうとした彼の目の前で、両親は逆再生の映像のように再生を始めた。散らばった肉片が集まっていき、千切れた手足、崩れた顔は元通りになった。驚く彼に、とうとう隠し通せないと悟った両親は真実を話す。しかし混乱した彼はあくまでも悪夢の中に自分はいるのだと信じ込んでしまう。彼は両親を切り裂いた。再生が追いつかなくなるまで数えきれないほど何度となく。現実感を損なわせる元になっているものがなくなれば全てが解決すると願って。執念で両親を完全に細切れにし、これでようやく現実の世界へ帰れると思った彼だったが、衝突した相手の車から再生途中らしい肉体がずるずると這い出てくると、恐ろしくなって逃げ出す。人間離れしたスピードで、しかも全く疲れずに走り続けられることで本当に自分は宇宙人なのかもしれないと彼は思うが、自分の住む町へ戻って友人を部屋に呼ぶ。もはや戻れないという予感はあったがそれでも一縷の希望を、人間として普通に生きていきたいという願いを捨てきれなかった。しかし部屋に来た友人は自分が実は宇宙人であると告げ、醜い真実の姿をさらす。思わず逃げ出すが、逃げた先逃げた先にいるのはエイリアンばかりだった。実は彼がいたのは地球ではなく、人間のフリをしたエイリアンが九割以上を占めている別の惑星だった。誰もが自分だけが異星人だと思っていたが、その実、人間はもはやほとんど生き残っていない、というオチ。孝一が現在挑んでいる舞台はそんな内容の物だった。彼は主役の青年を演じることになっている。それまでほとんど見たことが無かった宇宙人モノの映画をいくつも見てみたものの、どうしても役に入り込むことが出来ないでいた。彼にはかつて一度だけ、完全に役と一体化出来た、というより自分の存在が掻き消えて無限の宇宙に放り出されたような気分に、舞台の上で陥った経験がある。そのことがきっかけで役者を目指すようになったのだ。その感覚にならなければ本当に役を演じられていることにはならないのだと信じ込んでいた。だがそんなものはどれだけ練れた役者でも一生のうちに何度味わえるかという感覚なのであった。街でかつて一度だけ見かけた女性ともう一度会うために同じ場所で何十年も待ち続けるような行為を彼はしているようなものだった。
 ある日、稽古を終えて帰ろうとしたとき、演出を担当している先輩に孝一は声を掛けられた。飲みの誘いだった。家で自主練するために稽古期間中に限って彼は断酒していたが、落ち込んでいるのを見かねて言ってくれているのであろう先輩を断るのも申し訳なく、応えることにした。連れていかれたのは学生が遊びに来るには不相応すぎるような歓楽街の中心だった。一人ではとても来ることが出来ない場所なので思わずそこにいる人々をまじまじと彼は観察してしまった。自分の暮らしている世界とは違うどこかそれこそ別の星から来訪してきているかのような何もかもが自分と違っている何だか知らないが全身がギラギラと光っている人間たちがたくさんいた。そこに混じってアブない目つきをした足元のおぼつかない男や、アメリカのカートゥーンに出てきそうなむしろどうやったらそこまで太ることが出来るのかと思うほどの肥満体型の中年や、いい年をしているのに大学生のようなノリでギャーギャーと騒ぐサラリーマン風のスーツの一団がいた。
「楽しそうだな」
「ですね……」
「ん? あ、いや、お前がね?」
「あ、僕ですか? そう見えます?」
「おもちゃ屋にいる子供みたいだよ」
「あはは、おもちゃ屋ですか。でも、そうかもしれません。すごいなーと思います。ここの人たち、どんな人生送って来てるんだろうって、どういう風に毎日生きてて、どんな人たちの中で過ごしてるのかなって想像すると……たぶん僕ここで半日くらいヒマしないと思います。透明人間になってずっと見てたい」
「おー。勉強家だねー。でもせっかくのそのよく出来た、神様が何十万も課金してガチャ引きまくってやっとの思いで引き当てたようなそのルックス透明にするのは勿体ないからあんまジロジロ見てないで行こうか」
「……ボデーを透明に、ってやつですか」
「そうそう……ははっ。本当にそんなことになるのかは分からないけどね。ただ安全なところではないのは間違いないから、あんまり隙は見せすぎないようにしないと」
「分かりました」
 そんなことを言われてみると確かに一歩踏み外せば即刻暗闇にのまれてしまいそうな、あまりにも深い闇を覆い隠すための光のようだ。人工着色料で染められた砂糖菓子のようなとりどりの色に輝くネオンを見ながら孝一は思った。そして先輩のさっきのガチャの例えはいまいちよく分からないな、とも思った。気づかれないようにこっそり笑うと先輩が「マジか……」と呟くのが聞こえた。そんなに変だっただろうかと急いで顔を上げると彼の目線の先に居たのは自分ではなかった。そこにいたのは孝介だった。遠目にもへべれけに酔っぱらっているのがよくわかる様子で何事かを大声で喚いていた。二人で走って彼の下へ駆けつけた。
「だぁらあ! ぼったくりは、その、訴えますよって! はんざい、犯罪だかんね! 裁判なったら勝つの俺なんすよ! ねえ!? おばさん、やでしょお! 裁判、嫌でしょ! 次来た時払うんで! ねえ! ぼったくり! ぼったくりはあ、ダメ! ねえ!」
 すでにかなり焦っていた先輩だったが、孝介ががなっていた相手が誰なのか分かると見事に顔面蒼白になった。本当に人の顔というのは青白くなるものなのだと孝一は初めて知った。
「月子さーん!!! ああーっ! すいませんすいませんすいませんこいつうちのとこの後輩で、なんつうか酔うとダメで、いや酔ってなくてもダメなんすけど、あー! もうとにかくお前土下座しろ馬鹿! 馬鹿! すいまっせん! ほんとすまっせんした!」
「あら? 亀ちゃん? ふーん、そう亀ちゃんの……。役者さんなの?」
「え、あ、や、こいつはその、書く方の……あ、すいません月子さん、ちょっと、一旦、中で……いいですか」
「あーはいはいごめんなさいね……あ、そこの子もそう?」
「あ、そうですこいつも……お前すげーな、よくそんな平然と」
「え? あ、すみません。……面白くて」
 うっかり口を滑らせて場が凍り付いてしまったのを感じ、孝一はとりあえずとびきりの笑顔を全員に向けた。
 筆記体の読めない店名が掲げられた店の中に入ると、無頼派文豪の小説を読んでイメージするキャフェそのままのような世界が広がっていて孝一は驚いた。相当歴史のある店なんですか、それこそ戦後に米兵向けに開店したとか、と訊くと月子という名であるらしい初老の女性は笑って、一昨年開店、と答えた。この女性は亀ちゃんこと亀戸の母親の妹、つまり彼からすると叔母にあたる人だった。亀戸は気に入った後輩を彼女が開いた店によく連れて行った。そして御多分に漏れずかつて誘われて来たこの店に一人で通いつめ勝手に常連気取りになってツケを溜めに溜めた孝介が支払いを迫られて酩酊状態で逆ギレしているところに二人はばったり出くわしたのだった。
「で、月子さん。こいついくら支払い溜まってるんですか?」
「んー、それがね、今日でめでたく二ケタの大台」
「二ケタって……十万!? どんだけ来てんだよお前……」
「ええー? だって、居心地いいんすよここ……はあー……住みたい……」
「コーくんはダメよー。アタシこんな店やってるけどお酒は嫌いだから。お酒に飲まれる人は嫌」
「あ、月子さん。紹介まだだったけど、こっち、こっちのイケメンもコーくんなんすよ。孝一っていうんです」
「初めまして、高峰孝一です」
「そうなのー? あーらら、どうしよう。じゃあコーくんはコーくんであなたはイッちゃんね」
「イッちゃん」
「おおー、イッちゃん」
「イッちゃん……ふはははっ! イッちゃん! よおイッちゃん! 元気ぃっ!? 芝居は順調ぉっ!? 良いよなあ、才能の塊でおまけに愛されキャラなイッちゃん様はさっ!」
「うっはー、酔ってるなあホントに。おーい、もうとりあえず寝てたら、成瀬?」
「うーるーせー。こんな面白い人間だらけのところで寝てられるわけないだろ。芸の肥やし芸の肥やし」
「はははっ、高峰と考えること一緒だな」
「そう、ですねー……」
 それから数時間、彼らはノンジャンルの人間たちが入れ代わり立ち代わりやってくる店内に居座り続けた。店主である月子と話すことを目的として来たらしい人々に何度か脅されるも、月子本人がそういう輩を店の外に出したのでカウンターのど真ん中を学生三人が占領し続けることが出来た。
「おかしくないですかって。どういう訳で世の中こんなにくだらない人間がのさばってるんですか。テレビもネットも街中も、文化レベルの著しく低い奴らがね、我が物顔でのっしのっし歩いてんじゃないすか。画家なんてゴッホとピカソくらいしか知らないような、ビートルズすら一度も聴いたこと無いような、死ぬまでに一本もベルイマンの映画なんか観ないような奴らが。俺はね、月子さん、そういう奴らの横っ腹に一発ぶちかましてやりたいわけですよ」
「よっ! 大将! いいぞいいぞ!」
「メインストリームの真ん中をね、お茶の間にも浸透するような物を、今まで俺が通ってきた素晴らしい芸術たちのエッセンスをふんだんに混ぜて作るんです。どうせ、いくら勧めたって興味を持とうとしない、向上心なんてものは小学生時代に失ったやつらにはどんなに良いものでもそのまま勧めるのは無意味ですから。だからせめて、分かりやすい、ウケやすい形の物にさりげなくこう……なんというか……混入させておくわけですよ、毒を。毎日毎日、知らぬ間に毒を身体に取り込んでいってもらって、それまで自分が見てきた物のくだらなさにある日気づいていただくわけです。蓄積された毒はどこかで許容量を超えて突然効いてくるんです。そういう、遅効毒みたいな作家になりたいんだ」
「へーえ、そう、楽しみにしてるわよ、亀ちゃん」
「あー! 月子さん今適当にあしらいましたね!」
「え、えへへへ、バレた? だって難しいんだもの、亀ちゃんの話はいつも」
 普段の落ち着いた姿からは想像がつかないほど酔いつぶれて前後がなくなっている先輩の様子に、孝一は特に幻滅をしたりはせず、人はこうもアルコールで変わるものなのか、それとも隠しているだけでこれがこの先輩の本質なのか、それがアルコールで露呈した……だとしたら結局それはアルコールで変わったということじゃないか、などと、冷静に考えていた。飲んでいる量はへべれけの二人とそう変わらないにも関わらず全く様子に変化を見せない孝一を不思議がって月子が質問すると彼は「僕まだ酔っぱらうって状態になったことないんですよ」と答えた。「あら本当にいいわねあなた」と自分たちには向けたことのない目をした月子を見て嫉妬した酔っ払い二人がギャンギャン喚き出し、いよいようるささが度を超え始めたので月子が「解散!」と指令を下した。こうなるともう学生たちはその夜つるむことを許されないのだと亀戸に教えられ、もうしばらく残るという彼と別れて孝介と孝一は帰路についた。
 来た時と比べると、まだまだいかがわしい雰囲気は満ちているが、いくらかネオンが消え始めている街は何とも言えない優しい印象があった。客引きももうまばらにしかおらず、スマホをいじったり地面に座って半分眠りながら煙草を吸っていたり、誰もが疲れた様子だった。祭りのあとだ、と孝一は思った。いくらか酒が抜けてきたらしい孝介は店を出てからうつむきがちにずっと黙っている。何か考え事をしているのか、それともただ周囲の人々と同じく疲れただけなのか、どちらにせよ彼が突然何も言わなくなるのは毎度のことなので孝一は特に心配はしなかった。とうとう駅に着くまで孝介は一言も喋らなかった。
「大丈夫? 自分の家分かる?」
「ミズーリ州カンザスシティ……」
「あ、ダメだこの人」
「だーあじょぶ、だぁじょぶ、冗談だって。じゃあ、また明日な」
「そう? ホントに? あとで迎えに来いとか言われても絶対ヤだからね」
「かぁのぉじょぉかぁよぉって。めんどくせー彼女かよお前ぇ。大丈夫大丈夫。いざとなったらその辺の路上で寝るから」
「あー、あったね、大学の前で死んだように寝てたこと」
「だろ? だから大丈夫」
「どっこも大丈夫じゃないしなんで〝だろ?〟なんて威張れるのかわかんないけど、分かった。じゃね」
「おーう、ほんじゃのーう」
 ごめんやっぱ来てもらっていい? というラインが来たのは孝一がシャワーを浴び終え眠ろうとした時だった。「野垂れ眠ってろ」と返すとすぐに「ひーん」という気持ち悪い悲鳴を送られたのでエヴァのアスカの決め台詞のスタンプを、同じものを数十個大量送信したうえでスマートフォンの電源を切って彼は眠った。まさかふらふらと月子の店まで戻った孝介が亀戸と合流し予想だにしなかったような局面を迎えているなどとは夢にも思わず。

 代役を立てる。そしてそれを自分がやる。孝一たちが歓楽街で飲み耽った翌日の稽古で突然稽古場に現れた孝介が言い放った言葉に、その場にいた全員が困惑した。今回の舞台で、孝一の次に重要な役を演出と兼任していた亀戸が急病により出演できなくなったのだと彼は言った。今まで一度として舞台に出るどころか稽古場に来たことすらほとんどなかった孝介が有無を言わさぬ態度でそんなことを言い出したので、反発の声はひどいものだった。かといって代役要員が出るほど人数のいないサークルでは、他に候補と言えば孝介以上に頼りない一応稽古場には来るが役者陣と挨拶以外言葉を交わしたことがない、いつもひそひそ隅で何かを話している(恐らく付き合っているのであろう)作家志望が二人いるのみだった。「俺が嫌なのは分かる。でも、じゃあ誰がやる?」と孝介が問うと、もう佳境に来つつあるこの状況で今更別の役をやりたがる者も、隅の二人に頼もうとする者もおらず、外から呼べるほどのつながりもない弱小学生劇団では客演を頼みようもなかった。消去法によって孝介は役を得た。だが、驚くべきことが起こった。彼は役のセリフを完璧に暗記していた。それどころか他の役者のセリフも、芝居全体の流れもすべて把握していたのである。誰かが細かい部分で何かを忘れるととっさにさりげなくプロンプターの役割すら果たした。期待値がゼロどころかマイナスであっただけに周囲の驚きよう、そして喜びようは凄まじかった。これはもう飲みに行くしかない! と色めき立つ彼らを制して孝介は自分の原稿もあるので失礼します、とすげなく返した。孝一は何もかもに違和感を感じた。あれだけアルコールが好きな孝介が誘いを断る、いやそれ以前に亀戸の「急病」と言うのがよくわからなかった。誰に訊かれても詳細を語ろうとしない孝介はあからさまに何かを隠しているようだった。
「ねえ」
「……ん」
「何かあったの、あの後」
「何かっつか……いいよ、もう」
「もうって、いいってどういうこと? 亀戸先輩の急病って何? 何なら今からお見舞いとか」
 恐らく面会の受付時間は過ぎているのだろうな、と、星の無い空を一瞬見上げて思いながらも孝一は提案した。近辺では一番待ち時間が長い信号はちょうどよく、もしくはちょうどタイミング悪く青になっていたので、じっくり孝介を問い詰めることが彼には出来なかった。昭和の面影、どころか明治あたりからの姿を数度のリフォームを経ながら維持しているらしい細い裏道を普段より明らかに早い調子で進む孝介に孝一は追いすがった。孝介の家へはこの道からは帰れないはずで、いったいどこへ行こうとしているのか彼には見当がつかなかった。十分ほど歩いて着いたのは街灯の少ない、薄暗い小さな公園だった。濁った川の水が夜の闇のせいでぽっかり空いた空洞のように構える橋の上で、孝介はようやく足を止めたので、孝一はもう一度同じ質問をぶつけた。
「何があったの?」
「……あの、いや……お前さ。うん、いや、やっぱり……」
「何?」
「言ったよな? 来てくれって、ライン送ったのに……いや、でもな、来てくれたからって、そうだ、警察、救急車すぐに……」
「だからどうしたの一体。ちゃんと言ってくれないと分からないよ」
「うるせえな! い、うよ! 今、い、言おうとしてるんだよ! だから、要するに亀戸先輩はあの後、し、じ、死んだんだって!」
 それから孝介が話したことは孝一には信じがたい、というより信じたくない物だった。だが孝介が出任せを喋っているようには全く思えなかった。明日は大学を休んで病院の霊安室へ先輩に会いに行くという彼に孝一は同行を申し出た。

 雨くらい降ってほしいところなのに腹が立つほどの快晴の中、二人は学校から電車で三駅ほどの場所にある大きな病院へ向かった。何かを話そうとはお互い思えず、かといって特別気まずさも感じずに黙ったまま揺られていた。怖さや、悲しさも特に無いのが孝一には不思議だった。言い知れない気分の良さすらあったが、天気のせいだと自分に言い聞かせた。霊安室と言う場所があまりにも想像通りの寒々しく物悲しい場所だったことに二人は圧倒された。何もない。遺体は、先輩は確かにそこにいる。だがここには何も無い。薄暗いのだろうと思っていたがまるで小さな会議室のように安い蛍光灯で真っ白に明るく照らされている、そこだけは予想と少しずれていた。しっかり覚えているのはそこまでで、それから先のことを孝一はあまりよく思い出せなかった。体に上手く力が入らなくなってしまって、気づくと待合室の椅子に結構な時間座っていた。何も言わず隣にいてくれる孝介の存在がありがたかった。何かをあの場所で話したような気もしたが、やはりどうしてもぼんやりしてしまうのだった。それはまさしく死後の世界について考えるときのように、ある地点までくると思考が強制的にストップしてしまうのである。いよいよ夕方になって、一度仕事帰りや学校を早退してきたような人々で溢れたかと思うと、徐々に閑散とし始めたのを見て、いい加減帰ろうと彼らは立ち上がった。孝介の昨日の夜の言葉が孝一の中で何度も頭の中でループした。
「完全に酔っぱらった先輩が、やばそうなオッサンにつっかかっちゃって、何発か殴られたんだよ。それで、っていうか、それのせいだけじゃないんだろうけど、たぶん、元からかなりキてたんだと思う、色々。〝俺もう生きててもしょうがない〟ってそんなことばっかり何回も何十回も叫ぶみたいに言って、橋から飛び降りたんだ」
 何も気づけなかった。役者なんてものを目指しているくせに、人間を観察して、そのよくわからない生き物の裏も表もじっと見つめて正体を知って、それを自らの肉体をもってして表現することを生業にしようと考えているくせに亀戸の抱える物について何一つ気づくことが出来なかった自分を孝一は情けないと思った。気づけたところでそれを共に抱えることが出来たか、少しでも軽くすることは出来ただろうかと考えるとその自信もまるでないのが更に辛かった。
「どうしたら良かったんだろう」
「高峰。もしかして自分に責任があるとか考えてないよな」
 どのバスに乗るつもりも、どこへ行く必要も無かったが彼らはバス停のベンチに座っていた。傍らにある煙草の自動販売機は型がひどく古く、成人認証用のカードが必要ない物だった。おずおずと現れた高校生らしき制服の少年たちのうち一人が一箱購入すると興奮した様子で走り去った。
「はっきり言うけど、お前は何も悪くないよ。俺も悪くないし、誰も悪くない。いや、誰もじゃないな。先輩には申し訳ないけど、悪い人が、責任がある人がいるとするなら、先輩本人だけだから」
「そんなの……何かが足りないために死ぬのは自殺じゃないんだって、晴れ晴れと、何不自由ない中での不条理な死だけが自殺だって、それ以外は病死とか他殺なんだって寺山修司も言ってたじゃん」
「詭弁だよ。あの人の言うことはあんまり真に受けるな。あんな人の言葉に従ってたらあっという間に社会から外れるぞ。自殺は自殺。全部自殺。全ては先輩が自分でやったこと」
「じゃあどうしたらいいの」
「どうもしなくていいんだよ。どうにもできないし。ただ悲しめばいい」
 人を救う言葉を吐ける人が自分を救えるとは限らない。誰かが自分を棚に上げるのは誰かを非難する場合だけではなく、誰かを助けるときだったりもする。亀戸の事でそう気づいていたはずなのに、またしても指の隙間を大事な人がすり抜けていくのを、この時、孝一は許してしまっていた。最近「かなりキてた」のは亀戸だけではなく孝介もだったことを彼は一連の騒ぎの中で少しの間忘れかけてしまっていた。
 亀戸の抱えていた物の内容は、稽古が進む中で自ずと二人には分かってきた。「先輩よりやりやすい」「あの人やっぱり下手だったんだね」「自分は大根の癖に口ばっかりでさ」そんな言葉が口々に飛び出した。あくまで作・演出を第一義に考えて、役者としての自分の技術をそれに比べるとそこまで重要視していなかった、にもかかわらず毎回舞台に立ってもいた亀戸に団員たちは不満を募らせていたのだ。その辛さと、恐らく自分でも演技面で上手くいかないもどかしさが、笑顔の裏に吹き溜まっていったのだろう。それでも出演し続けることにこだわり続けたのは、演じることが好きだったからに違いない。芝居をしている時の亀戸の顔を思い出すと、どう考えても孝介はそうとしか思えなかった。心から舞台を楽しんでいる人は、どうしてもそれが見えてしまう。その逆もまたそうなのだが。だから彼はそれが伝わってしまわぬように努めるのに必死だった。どちらかというと亀戸と同じタイプである孝介が、しかし亀戸のように団員たちから疎まれずにいられたのは誰よりも孝介本人が不思議だった。その理由は、孝一からすればハッキリしていた。上手いのだ。天性の物としか思えない。高校時代も演劇部に所属していたが専ら裏方で演技経験などほとんど無いらしいにしては孝介の演技は上手すぎた。この世に才能などと言う物はないと思っていた。努力さえ積めば誰でも、自分でも、一流になれると信じていた孝一は初めて本物の才能というものを目撃した気がしていた。何が自分と違うのか、稽古期間中常に考え続けたが、彼にはついぞ分からなかった。
 とうとうやって来た本番の日、その日もいつもと変わらずどこか打ちのめされた思いで孝一は舞台に臨んでいた。だがなにかが普段と違った。何度も見てきた大好きな映画の隠された意味がある時ふっと分かるように、物語から違うメッセージが見えてきたのだ。
 エイリアン、とは何だろうか。自分は普通だと思っていたら、エイリアンだった。そして人間だと信じていた誰も彼もがエイリアンだった。この戯曲を書いたのは亀戸先輩である。これはあの人の赤裸々すぎる思いなのではないだろうか。今まで信じてきた自分が、世界が、全く異質だと気づいてしまった、自分の思っていたようなものではまるで無かったという絶望を描いた物語なのだ。ゾッとしたが、悟られてはいけないと平静を装って孝一は演じ続けた。孝介はこのことに気づいていたのだろうか。だからこそ無茶にも思える代役を申し出たのか。ラストシーン、孝一の演じる主人公は、孝介が演じる、そして亀戸が演じる予定だったその惑星唯一の異星人ではない存在と出会い、恐れながらも受け入れようとしてくれた彼を手にかける。いつもなら孝介への羨望が変化した苛立ちをぶつけるように演じられていたその場面にたどり着くと、孝一は全身が震え出した。本当に良いのだろうか。ここで、舞台の上で彼を襲ってしまったら本当に孝介を、そして既に死んでしまった亀戸をもう一度殺してしまうことになってしまうように思えて、どうしても一歩踏み出すことが出来なかった。場をつなぐために孝介はアドリブでいくつかセリフを孝一に投げかけた。しどろもどろになりながらも台詞を返すうちに孝一は落ち着いてきた。演じること、舞台に立つことの楽しさをアドリブへの対応によって思い出すことが出来た。思いがけず生まれた緊迫感によって、舞台は大成功の内に幕を閉じた。予選突破の報はすぐに届き、念願叶って演劇サークルは大学公認になった。孝一も憑き物が落ちたような気分だった。ラストシーンで亀戸を送ることが出来たような気がした。だがすぐに孝介がサークルどころか学校にすら姿を見せなくなったことで、また新たな不安が芽吹いた。

 孝一の兄と同じ道をたどっていたのは孝介ではなく亀戸であった。また大事な人を全く同じような形で亡くしてしまったと彼は悔やんだが、だからといって孝介がその道から抜け出せたと認識してしまうのは間違いなのだと、どうしてか彼は気づかなかった。もはや孝介は自らの命すら省みずに身を削って創作をすることなど考えていないのに違いないと信じ込んでしまった。連絡が取れなくなったわけではなかった。「執筆の追い込み」であるとの返答を得て、孝一は少しだけ疑いながらも、これまでにも何度かそんなことがあったので過度に心配してはいなかった。
 孝一が孝介の姿を見なくなってから、亀戸が死んでしまってから一か月が経った頃、二人は偶然再会した。亀戸が飛び降りた橋の上だった。ほとんど陽の暮れ落ちた深紫の空は街に重くのしかかり、今にも弾けて中からどろりとした変な色の液体が飛び出してきそうに、孝一には思えた。我ながら変なことを考えてしまったものだと薄く笑った。買ってくるのも違う気がして道端にある中では一番きれいに見えた白い花をいくつか摘んで添えた。帰ろうとしたとき、向こうから見覚えのある人影が近づいてきた。挨拶をしようとする孝一の横を通り抜けて、その人は手に持っていた書類用ファイルらしきものをビニールひもで欄干に力いっぱい括り付け、手すりを乗り越えて向こうへ行こうとした。あまりの勢いに呆気に取られていた孝一もそこでハッとして止めにかかった。
「離せ! やっと完成なんだ! これで俺が飛び降りれば完璧なんだ!」
「何言ってんの、成瀬! 成瀬まで死んでどうするんだよ! 皆待ってるんだ! また役者やってくれよ!」
「嫌だ! もう二度と俺はあんなことしない! はーなーせーっ!」
 しばらく揉み合ったのち、巡回中の警察官に見つかり、厄介なことになることを恐れた二人は意見が一致し、一緒に全力で逃げた。案の定かなりアルコールが入っていた孝介は酔いが急激に回ったようで、ほとんどシャッターの下りた商店街まで逃げおおせたころには立つことすらできなくなっていた。子供の教育によくないとかなんとか頭の悪い理由で近々撤去される予定らしい屈強な裸の男の石像に、二人は背中合わせでもたれかかっていた。
「死ぬなよ……」
「あぁはっ、直球……死なねぇよ」
「さっき死のうとしてたじゃん」
「……酔ってたんだよ」
「それじゃ済まされないけど」
 日中は淀んだ川の水を漂うゴミのように統一性の無い人々で溢れているというのに、アーケードには自分たち以外誰もいない。一体あの人たちはどこへ行ってしまったのだろう。普通に考えればそれぞれの家へ帰ったのだろうが、本当にそうだろうか。あれだけの人の全員が、間違いなくどこかへ帰ったのか。あの中の何人かは、もう生きてはいないんじゃないか。そんな人もいるんじゃないか。世の中の、毎日の、すれ違う数えきれない人のうちの誰かにとって、今日という日が最後の一日である可能性は、ゼロではない。そう思うと、孝一は今自分がいる場所は盤石の揺るぎない地面ではない気がしてきた。そこら中に落とし穴や地雷や忍者がかかるような網の罠が仕掛けられているような恐怖に苛まれた。死というものがいまだかつてないほどはっきりと見えた。明日には死んでいるかもしれない。それどころか一秒先だって何があるか分からない。突然隕石が降ってくる可能性だってある。そんなことは小学生の頃にもよく考えた。だが本当に冗談じゃなくそうなのだということが実感として感じられた。それでも、何はともあれ今自分は生きているのだ。不条理な、避けられない罠は仕様がない。それが現れてしまったら大人しく引っかかってすっと死んでしまえばいい。自分以外の誰かがそうなったときも同じだ。生きてようと死んでようと、それがなんだというのだ。どっちも同じようなもんじゃないかと、よくわからない境地に孝一は一人で至っていた。
「……あ、どうでもいいんだけどさ」
「ん?」
「さっきの、原稿? だよね。いいの?」
「あっ!!! 俺の傑作!!」
 まだ全然体力は回復していないというのに走り出した孝介を追って孝一は走った。息切れと心臓の早すぎる鼓動で今にも死んでしまいそうだった。いっそ破裂してしまえばいい。紫の重苦しい空にのしかかられて、景色も人も自分も、全て弾けて変な色の液体をまきちらしてしまえばいい。そんなことを思って大声で笑ってしまった孝一を見て、孝介は安心したようにひっそり笑った。孝介が孝一の心からの笑顔を見たのは、舞台の稽古が始まる前、春先以来初めてのことだった。

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