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また会えたら

過去に書いたエッセイです。

この週末、立て続けに古い友人たちとあった。長い時間をともにしてきたわけではなく、お互いの半生を深く共有しているわけでもないのだが、ある一面において、価値観と情報量が釣り合っているのだろうか、定期的に会ってはつらつらと話し、時間がくると次に会う日どりも決めずに解散する関係。芸術における文学の独自性について話をする友人もいれば、年相応の色気とは何かについて言いあう友人もいる。その一点においてのみ、彼ら/彼女らとは深く繋がっており、代替不可能な存在として、僕の心に在る。これからも付き合ってもらいたいと思う。ただ、互いへ深く踏み込まないことがそのような関係を維持する必要条件と思っているのだろうか、気づいたら消滅している関係もこれまでたくさんあった。けれど、これでいい。一瞬の交錯かもしれないが、彼ら/彼女らは、砂金のように残滓し、僕の輪郭に覆いかぶさり、僕という存在を拡張してきてくれた。また会えたら、そのときはそのときで、また新しい結節点を生み出せればいいなと思っている。

不良漫画がとても好きで、あれこれ読んでるうちに気づいたことがある。不良漫画はどれも非常に似通っていて、絵柄、コマ割、セリフまわしに物語の語り手、主人公やその相棒、ライバルたちの性格など、正直全部同じと言って差し支えない。結局受け手が面白いと思うかどうかは、抽象的要素の掛け合わせが正解かどうかによるのだろう。友情とバイオレンスのかけあわせは正解なんだ。面白い物語というのは非常にヘルシーで理解しやすいものなんだ。読み解く知的努力が発生すれば、それは振り返って面白いと思うことはあれど、読みながら面白いと思うことはできないはずだ。人間の感受性は拡張することはできるが、それを意図した努力によってしかなしえない。大半の人間の感受性は網目が荒く、そこに生まれる感情は消費財でしかない。

どのような経緯で買われ、飾られているのか知らない絵が実家にはたくさんある。僕が生まれる前の両親の人生を、僕は知らない。僕が知らなければ、40年後にはこの世界から消えてしまう記憶で、知る義務があるのかもしれないとまで思っている。語られない記憶たちは、どこに消えていくのあろう。


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