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それでも撮ってしまう写真をどうしたらいいのか。

写真を撮る欲望について考えてしまう。
(この辺が作家脳の病癖だ)

いい風景や情景に出会うと撮影したくなる。あるいは絵を描きたくなる。
(写真の方がこの欲望に沿って書きやすいので写真について書く)
そのまま撮っても凡庸な写真でしかない。


朝起きて目にする情景を一枚



なので、凡庸から脱していい写真にしようとする。撮影技術を上げる、機材をよくするという方法をとる。
しかしそれでも凡庸を脱するのは難しい。せいぜい作例写真に近づくくらいで。
もう少し踏み込んでみる。

独自の撮影方法や機材、プリント手法を開発する。
独自のモチーフを探す。
独自の写真へのアプローチを試みる。
独自の眼差しを獲得する。
写真以外の要素を取り入れる。

この辺を絞り込んでいくとアート風写真やコンセプチュアルな作風に近づく。
評価の高い作品というのはこれらの多くを有している。
(これだけ独自が並ぶのだから、素人には分かりにくいということが起こる)

撮りたいという欲望からシャッター押すまでの1秒ほどの間にもこういうことを演算する。あるいは撮る以前にも演算する。

私の場合、そうすると撮らないという選択が多くなる。とってもしょうがない、どうせ凡庸な写真にしかならないと。
最近の「浄土」シリーズの路線だと、撮るシチュエーションやモチーフは極々限られていて、ほとんど撮ることはない。半年でfilm一本程度。
しかも撮りに出かけるということもしないので、一期一会の遭遇となる。


雄大な風景に圧倒されて、つい撮ってしまう


ところが、今いる礼文のような非日常的な場所にいると、
目にするものが新鮮であったり、圧倒されたりするので、
それでも撮りたいという欲望が多々募る。
これをどうするか?しばし考え込んでいた。

投稿に載せる写真は、私がFBなどを見ている方に伝えたいと思う部分が大きい。
個人新聞の報道写真的スタンスだ。これはiPadで撮ってすぐに投稿している。
作品的写真と、この報道的写真の間にある膨大な欲望の写真。
これはなんだろう?どうしたらいいのだろう?
単なる紀行スナップなんて凡庸の極みで、作品になんてなりはしないし、
オリジナリティの可能性も限られている。

これは自慰的な欲望の発露である。
所有欲や記録欲や承認欲や、あるいはまた別の。

しかし、これをあえてもう少し探ろうと思い、まずは手法が閃いたので、実践してみる。単なる模倣にすぎず自己満足かもしれないが。

そこで登場するのがハーフカメラである。

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