キノサキにて 【戯作・エッセイ】
アタシは、虚の世界に住んでいるので、エッセイなんて書かないよ。だから、あの世から書いていると思ってほしい。アタシはもう死んでいる。
ナオヤが小動物を殺害した現場はキノサキ温泉である。あなたも知っているでしょう。ミケヤ旅館に泊まったそうだ。アタシもいつか泊まってみたいが、財布への負担が重すぎる。奴は電車に轢き殺されそうになり、九死に一生を得て療養に出かけた。
ミケヤの建物は登録有形文化財になっている。ナオヤが行かなければこんなに有名になっていないだろう。門の前まで行ったことはある。アタシは亡霊なので難なく忍び込めると思うが、気後れがするのでサイトを覗いてみるだけにするよ。かなりの高級旅館のようだ。むかしは小説家風情でもこんな旅館に泊まれたのだろうか。
久しぶりにキノサキを読み返してみる。ずいぶん退屈な文章だが、それなりに味がある。まあ、イモリを干物にした味わいというか。アタシのことを書いているのかと思うよ。実際、何が起きたかわからないんだよ。頭がガーンとして、それっきり、今は霧の中にいるよ。無常だな。死獣に口なし、というけれど、アタシは今になってこんな文章を書いていてしみじみ考える。あいつはアタシの命を奪ったんだ。奴は、のうのうと生き延びた。アタシは幽冥界を漂っている。いつか償ってもらうよ。
ナオヤゆかりの間もそのまま残っている。8畳の和室から庭園が見えるらしい。アタシはその部屋に泊まって空想に耽ってみたい。ナオヤがどんな気持ちでいたんだろうってね。アタシがあの世に召されたその瞬間、奴の心の中で起こっていたことを辿ってみたい。もちろん、但馬牛の寿司でもつまみながらね。
ああ、なんてことだろう。ヨダレがじゅるじゅる流れる。もう舌も胃袋もアタシにはないはずなのに。もっと生きていたかった。飽食の時代を生きてみたかった。あいつの投げた石つぶてはしっかりアタシの脳天に命中した。そのままフワッとなった。ごく短い時間だった。
鯛の味噌汁。人參、じやが、青豆、鳥の椀。鯛のさしみ。胡瓜。烏賊の酢のもの。鳥の蒸燒。松蕈と鯛の土瓶蒸。香のもの。青菜の鹽漬、菓子、苺。
目にしたわけじゃないが、ミケヤの夕食のメニューらしいよ。一品一品は質素にも見えるが、総体的には豪勢といえるだろう。奴はこれを残りなく平らげたんだろうか。
朝のメニューはこうだよ。
蜆、白味噌汁。大蛤、味醂蒸。並に茶碗蒸。蕗、椎茸つけあはせ、蒲鉾、鉢。淺草海苔。
うん、そうかな、という感じ。しかし、なぜ浅草海苔なのか。地物は使わないのか。
それにしても、今の感覚からすると若干の物足りなさを感じる。但馬牛の寿司は特注だろうか。別料金を取られるんだろうか。
アタシは風呂に浸かりながらつらつらと考えた。ここには外湯がたくさんある。宿に泊まるよりずっと安上がりだ。だが観光客が増えたからだろうか。妙に小綺麗になってしまったかんじがする。ナオヤが滞在した頃はこんなじゃなかっただろう。もっと素朴だったんじゃないか。それにしても考えごとするには温泉に浸かるのがいちばんだよ。脳みそがとろけていく気がするな。生と死の狭間でアタシはいまどこにいるのだろうってな感じになる。
……アイツは長い小説も書いているらしいが、読む気がしないな。キノサキだけで十分だ。あいつの小説はみんな退屈だ。国語教師が持ち上げているだけだ。あんなものを読むくらいならホメロスでも読みなさい。僕は君たちに忠告しておこう。
その夜、夢を見た。アタシは串刺しにされて食卓に並んでいる。どうやらミケヤの特注メニューにナオヤゆかりの品が加わったらしい。プラス5000円なので、決して安くはない。ナオヤを修論のテーマにしているとかいう女子学生がしげしげとアタシを眺め、メモを取っている。そして、突然、串を手に取ると、鋭い前歯でかぶりついてきた。じゅるじゅる音を立てながら、ものすごい勢いでアタシを噛み砕き、ペースト状にして唾液とからみ合わせ、ひと飲みにした。アタシはすでに幽体離脱していたのでその光景を外から眺めていたのだったが、何だかおそろしかった。
この付近、冬になると蟹を喰いに宿泊客が押し寄せるらしい。アタシはその時期は冬眠中なので状況がわからない。川から蟹が湧き出すんだろうか。温泉街が蟹の泡で埋め尽くされるんだろうか。ナオヤもキョウカもそんなことは書いていない。うまく想像できないけど、もしうまく想像できたとしたらおそろしい光景だよ。冬の温泉で蟹が大量に消費され、死骸の山ができる。リュウあたりが書けばいい題材かもしれないけれど、キノサキのイメージには合わないな。
やっぱりナオヤはいい。文章は退屈だけれど、生と死の間を漂っているみたいな静かな気持ちになれる。あの世に行っても読める文章だと思う。現代の文芸家たちも見習ってほしいな。何だかんだいってアタシはナオヤのことが気に入っているんだ。
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