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私のスピにおけるスタンス

私は何事もバランスが必要だと思っている。

それを大前提として、今日はピリリとされる話題の一つであるスピリチュアルの世界について公平な立場をとった自論を述べてみたいと思う。

私は個人的に全ての因果をスピリチュアルで片付けず、そういう法則があることを認識しつつ、自分で考えて行動している人というスタンスをとっている。

どういうことか?

そもそもなぜスピリチュアルな世界に嫌悪感を抱く人がいるのかを考えた時に私にも理解できる節はある。

それはその話をしている人たちが、全ての因果をその世界に結びつけ、だから仕方ないとか、そうなる運命だったのとかを本気で話している人が多いことが一つの要因ではないかと思う。

そういう話をしている人が目をキラキラさせながら、星がこうだからこうなる!と親切心をもって言ってくれたことや、

ちょっとスピ寄りの映画上映の後に「幸せにしてくれる石」と謳った宝石販売会が開かれた場に出くわしたことがあるのだが、こういうことをするから嫌悪感をもたれるのではないのかなと残念な思いになったことが何度もある。

熱が強ければ強いほど、相手はひく。の典型だ。聞いてる人からしたら一切根拠ないし!

そして、そっち側に偏っている人の何が残念に思えるかって、全てを宇宙やスピによって判断していると本人の選択肢が奪われているように思えるところだ。もし、自分が直にそういうのを感じて判断をしているならともかく、他人のお告げでその通りにするのはどうかなと。

自分が判断できる知識や能力があるのならいいと思うけど、それっぽい言葉を言われて鵜呑みにするのは危険なこともあるだろう。

大体信じ切ってしまうのは弱っている時だったりするし・・・。自分から逃げてスピに依存していると思われても仕方ない。

その信仰っぷりが強力過ぎて忌み嫌う人もいるのかなと。その気持ちはよく分かる。


スピリチュアルを忌み嫌う人

理由は様々だと思うが、目に見えないものは胡散臭いと切り捨てるのも可能性を狭めていて勿体ないとも思う。別に聞き入れるか否かの選択肢は本人にあるわけだから。実は仕組みを知るとすごく理論的で統計も取れていたりするので一概に怪しいものとは言い難いものである。むしろ怪しいのはスピ自体ではなく、それを胡散臭く説明している”人”なんだと思う。

目に見えないものだから分かりづらいし、説明もしづらいので自分から知ろうとしないと結局よく分からない。だから宗教だ!怪しい!となってしまうのだけど、それも極端な選択かなと思う。


密かに取り入れている人は少なくない

こういう話をわざわざ公の場で言う人は日本では特にいないけど、(声をあげるのは極スピ派の人たちばかりだし)実はうまくいっている人は声をあげずに密かに取り入れている。学んでみて思うのは、所謂成功者と言われる人の多くがそりゃ皆と同じように普通に生きててあれだけ差が出るのは何かあるよな、だ。その差がそれだったりもする。バランスよく取り入れているのだ。

信じ過ぎたり、忌み嫌ったりすることが問題ではなく、結局、それらを踏まえて自分で考えてどう行動するかだと思う。

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