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未来のために、記録を重ねる 未来のために、記憶をつなげる


#それぞれの10年


 10年前の3月11日、僕は幼稚園から帰ってきておやつを食べようとしていました。

 そのとき、自宅を強い揺れがおそったのです。


 最大震度7、マグニチュード9.0という未曽有の大地震。

 揺れによって引き起こされた津波は場所によっては30mに達し、多くの町を破壊しました。

 どこか遠いところでのできごとだと思っていた「地震」というワードが、あの日を境にぐっと近くなりました。

 それはきっと、皆さんも同じはずです。


 僕にとって災害が他人事でなくなってしまったのは、祖父母が福島在住だったことが大きいです。

 震災後初めて福島に行ったのは、発生からまだ2か月も経っていない、2011年4月の末ごろ。当時は知りませんでしたが、そのときはちょうど原発事故に伴う避難区域が策定されたばかりで、福島には支援物資がなかなか届かなかったのだとか。
 いわき市から南相馬市へ抜ける交通機関はすべて断たれており、小野や川俣を通って8時間ほどかけて向かいました。

 海沿いにあった大きな家は、津波により跡形もなく消え、毎年のように行っていた馴染みの場所にも、行けなくなってしまいました。

 祖父母の自宅だけでなく、周りにあった建物はほとんどが流され、ずっと先にある町の中心部も、反対側の海岸線も、がれきの山の向こうにうっすらと見えました。

 見慣れた景色は、そこにはない。

 どこまでもまっさらな荒地が、今でも目に焼き付いて離れません。


 震災があったあとも、僕は毎年、長期休みの度に福島へ足を運びました。はじめは単純に祖父母に会いに行くためだけの帰省でしたが、いつの間にか、福島の現状を追いかけ続けることが、もうひとつの目的として自分の中に確立しつつありました。

 すっかり変わってしまった景色を前に、何も考えずにはいられなかったのです。

 何か自分にできることはないか。

 何か自分に残せるものはないか。

 そう問うていました。


 2015年に国道6号が開放されてからは、帰還困難区域にも足を運ぶようになりました。

 建物は棄てられて、田畑は荒れ、街から人が消えていました。すれ違うのは警察車両と工事のトラックばかり。

 僕はこのとき初めて、原発事故の恐ろしさを間近に感じました。

 でもどうしてか「もうこんな場所来たくない」とは思わなかった。


 僕が物書きの仕事を志すようになったのは、ちょうどそのころ。

 「時刻表2万キロ」に触れ、将来は紀行作家になりたいと思うように。

 中学生になり、文芸部に入部して最初に書いたのは、実は福島のことでした。

 震災を近くで体験した人は自分の周りにはほとんどおらず、みんなに少しでも東北のことを伝えられたらと、顧問の先生にダメ出しを何度かくらいながらも、頑張って書いたのをよく覚えています。

 東北のためにできることがやっと見つかったような、そんな気がしました。


 ネットでの活動をスタートさせてしばらく経ってから……といっても昨年の活動再開後ですが、ちょうどネタのストックがGWの帰省まで回ってきて、福島について詳しく触れました。そして、東北に対する思いも。

 あらためて、東北に対する自分の認識を確かめられました。


 常磐線の旅行記を書いて以来、ニュースをみるたびに福島のこと、東北のことを今まで以上に考えるようになりました。

 そして、それについて意見を述べたり、思いの丈を叫んだりせずにはいられなくなっています。

 皮肉なことかもしれませんが、僕にやりたいことを示してくれたのは、震災だったと思います。

 記録を、記憶を途絶えさせないように、伝え、次へつないでいくこと。積み重ねてきた過去を土台にして、未来をつくりあげていくこと。

 それが僕にできることだと、あの、忘れもしない3月11日に、教えてもらったのです。


 そうして進んできた、僕にとっての10年でした。

 次の10年が、どんなふうに動いていくのかは、想像もつかないけれど。

 これからも積み重なっていく東北の記録を、あの日からの記憶を、未来へつないでいくことは、忘れないでいたいです。

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