『思い出の一冊』
「文学フリマ東京38」で無料配布した小説です。
――おかしい
水沢瑛太は、カウンターから本棚の間をじっと見つめていた。眼鏡の奥の小さな目をさらに細める。
昼というにはちょっと遅い、しかし夕方にはちょっと早い駅前のアーケードは、人気も少なく、ゆったりとした空気が漂う。
その一角に門戸を構える古書店で働く瑛太も、この時間帯は暇を持て余すばかりであった。客が来ない限り大層な仕事はないのだから、瑛太は本棚から古本をこっそり拝借し、カウンター裏に置いて読むのを、毎週の楽しみにしていた。
しかし、今日はどうも様子が違う。
瑛太の視線の先にいるのは、一人の客だった。ベージュのコートを羽織り、ハットを目深に被っている。男性だろう、と推測はできるが、その他のことはよくわからない。
だが容姿以上に瑛太の目を惹きつけたのは、素性のわからなさも相まっての、その雰囲気だった。何とも言葉にするのが難しく、近寄りがたい感じがする。昼下がりの不思議な来客に、瑛太は本から目を離さずにはいられなかった。
――どうして、こんなにも気になってしまうのだろう
気付かれない程度に客の方を見つめていると、瑛太はあることに気が付いた。
――児童書?
客が立っている辺りの棚は確か、児童書の棚だ。この店に子どもが来ることはほとんどないが、たまに珍しい児童書が流れ着いて、大学の先生などが偶然その時期に来ると、児童書を資料として買っていくこともあった。瑛太も、そうした研究者の何人かとは顔見知りになっていた。
この客も、そんな研究者の一人なのだろうか?
「あの」
呼ばれて瑛太がふっと体を起こすと、例の客がいつの間にかレジカウンターのそばまで来ていた。改めて客の顔を見ると、少し皺の寄った、六十から七十くらいのおじいさん、という様子だ。ハットを取って現れた頭には白髪が混じっていて、つばに隠れていた目は、意外にも温和そうだった。
「……えっと、何か御用でしょうか」
恐る恐る、瑛太が口を開く。
「いえ、何というわけではないんですが……どうも視線を感じてしまったもので」
客は苦笑いしながら答えを返す。瑛太の表情が曇った。
「……これは、申し訳ございません。どうしても気になってしまって。この時間、あまりお客様が来ないものですから」
ペコリと礼をすると、客はまた笑って、
「いえ、とんでもないです。こちらこそ、驚かせてしまって……」
不審な人ではなさそうだ、と瑛太はもう少し踏み込んでみることにした。
「何かお探しでしたか?」
「あぁ……そうなんです、ある本を探していて」
そう言って、客はカバンから地図帳を取り出した。表紙はすでにだいぶよれていて、中も書き込みだらけだ。
「もう何年も、その本を求めて旅をしているんですが、なかなか見つからないんです」
「え、一冊の本のために、何年も……?」
瑛太は思わず聞き返した。古書店に勤めていると物好きと出会うこともしょっちゅうだが、そこまでの人物に出会うのは初めてだった。
「はは、よく驚かれます。何が原動力になっているのか、自分でもわからないくらいで」
人一人をそこまでさせる本。瑛太はますます興味が湧いてきた。
「どんな本なんですか?」
「子供の頃、母がくれた本なんです。少年が冒険に出る、という今思えばありきたりな物語ではあるんですが……あの時の私にはそれはそれは輝いて見えましてね。何度も読み返した思い出があります。分厚さも重さも含めて、私の幼少期を彩った一冊である……と、思っています」
客の目には少年の心を思わせる光が宿っているように、瑛太には映った。
「大事な本だったんですね。それをどうして今になってまた?」
「……働くようになってから、本を読む時間がまったく取れなくなってしまって、住まいも転々として、その間に本もかなり処分してしまったんです。そうこうしているうちにあの本の存在も頭の中から消えてしまって……」
目を瞑って、過去を思い返すように――そこには後悔の念も混じっているように――客は続ける。
「でも数年前に定年を迎えて、また本を読む時間が取れるようになってくると、あの本のことも思い出したんです。ただ、もう手元にはなかったもので、もう一度買おうと思って、探し始めました。そうしたら……」
「こうなっていた、と」
客はまた苦笑いしながら、こくりとうなずいた。
瑛太は話を聞きながら、本のもつ力をひしひしと感じていた。一冊の本が、この客の生き様を方向付けたのである。しかし、それほど長いこと津々浦々探し回っても見つからないとは、それもまた不思議なことであった。
「その本の題名はわかりますか?」
「……それが、はっきりとは覚えていないんです。作者の方も、調べてみてもそこまで有名ではなくて、手掛かりがまだ足りません」
とりあえず作者の名だけでも、と瑛太はその作家について聞き出したが、本棚にも書庫にも、客の求めたような内容の本はなかった。
「すみません、お力になれなくて」
「いえ! あなたのおかげで、こんないい本屋さんに出会えましたから。本当にありがとうございます」
探し物はここでも見つかることはなかったが、客の顔は晴れやかだった。見つからないことに慣れてしまったゆえか、この古書店との出会いに心から喜んでいるのか。
「もしそれらしき本が流れ着いたら、また連絡しますので。お待ちしております」
「ええ。また、会いましょう」
*
まだ蕾が開く日を待っていた桜が、気付けばもう葉をつける時期になっていたある日。駅前の古書店に一通の手紙が届けられた。
『旅を続けます お体に気をつけて』
シンプルな文面に添えられて、L判の中で遅咲きの桜が満開になっていた。
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