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2018年末−牡鹿半島を目指す旅

こんばんは、しおさいです。

ちょっと前の旅行記、今回が第2弾となります。

今回は長いです。写真少なめ文多めです。以下本文。

雪舞う朝の通勤列車

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2018年12月30日、日曜日。

前日の夜、急に思い立って牡鹿半島に行ってみようと考え、朝の鹿島駅にやってきた。ここ数日は雪が降ったりで天気が悪かったが、今日は晴れている。

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8時58分発の仙台行きに乗る。ホームに積もった雪が固まってすっかり凍っている。危うく足を滑らせそうになった。

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定刻通りに出発。車窓のほとんどは田畑で占められているが、今の時期は何か植わっている様子はない。

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相馬を過ぎてまたしばらく走り、新地に着く。
ここは、東日本大震災のときに停まっていた列車もろとも津波に押し流された駅。ニュースでその名前と光景を目にした方は多いのではないだろうか。
駒ヶ嶺から浜吉田にかけては津波の影響をもろに受け、中間にあった3駅が被災した。現在のルートは2016年12月の再開時に変更されたもので、流された新地・坂元と、流失こそ免れたものの後に解体となった山下の各駅も建て直された。

まだ新しい高架橋を駆け抜け、宮城県に入って列車はさらに北へ進む。

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阿武隈川の長い鉄橋を渡る。東北地方では2番目に長い河川で、福島県から宮城県南部を通る。両県の境は県立公園に指定されている景勝地で、舟下りも行われている。

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横長い水門を横目に鉄橋を渡り切ると東北本線に合流し、工場群を右手に見ながら岩沼に着く。ちらちらと雪が舞っていた。

仙台には10時08分に到着した。

いざ、未踏の地牡鹿半島へ

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ここからは、いよいよ初乗車となる区間。10時16分発の快速石巻行きが、すでに発車を待っていた。車両は先ほどまで乗っていたE721系電車によく似ているが、電車ではなくディーゼルハイブリッドシステムを搭載した気動車、HB-E210系である。

ディーゼルカーらしいエンジンの唸りを響かせて、列車は定刻通りに発車。松島の手前までは東北本線を経由し、そこから仙石東北ラインという連絡線を介して仙石線に移り、石巻へ向かう。

車窓を見ていると、相馬あたりに比べて積もっている雪の量がだいぶ違うことがよくわかる。40㎞ほど北に行っただけでこうも変わるものか、とちょっとびっくりした。

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塩釜を出て、右から寄ってきた仙石線としばらく並走すると、東北本線と仙石線をつなぐ連絡線にさしかかる。
東北本線と仙石線はどちらも電化されているが、双方をつなぐ連絡線は非電化で、それゆえ気動車が用いられている。
というのも、東北本線が東北地方で一般的な交流電化方式を採用しているのに対し、仙石線は私鉄時代から受け継いだ直流電化方式となっており、どちらにも対応する車両でないと走れないのだ。
普通は「デッドセクション(死電区間)」を介して方式を変えるが、ここにはデッドセクションの大がかりな設備が設置できず、それならばと気動車での運転となったわけだ。

仙石線に入って高城町に止まり、陸前大塚を通過すると新線区間となる。ここから陸前小野までは津波の被害が大きかったエリアで、間にあった東名・野蒜の2駅が浸水・半壊の憂き目に遭い、さらに区間内を走っていた上り電車に津波が直撃。乗客は全員近くの小学校に避難したが、その小学校が津波に襲われて数人が亡くなっている。

東名を飛ばして野蒜に停車。仙石線の私鉄時代に運営会社の社長が近くの海岸に目をつけ、観光開発を目的として設置された駅である。
前述の通り旧駅は津波の被害を受け、現在は高台に移設された新しい駅舎だ。ただ旧駅は全壊しておらず、東松島市の震災復興伝承館として生まれ変わった。

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付け替え区間が終わって陸前小野に止まり、雪原の中を一気に駆け抜けていく。雪の少ない関東に住んでいるからか、一面の銀世界はとても新鮮に感じる。

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航空自衛隊松島基地の最寄り駅、矢本に着く。直前に突然雪が降りだし、車窓ががらりと変わった。

しばらく行くと雪は上がり、すっきりした冬の青空が見えてきた。

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石巻の街を見下ろしながら石巻線と合流し、石巻には11時18分に着いた。

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駅舎。スカッと晴れている。
石巻駅が現在の形になったのは1990年のことで、それまでは仙石線と石巻線それぞれが独立した駅舎とホームを持っていた。これは前述したように仙石線が私鉄だったことに由来している。

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デパートと錯覚するようだがこれが市役所。もともとは本当のデパートだった。
「漫画の帝王」石ノ森章太郎が宮城県出身であることから(生まれは石巻ではなく登米だが石巻とは縁が深いらしい)仮面ライダーが立っている。

ディーゼルカーと潮風、止まった時間

Newdaysで買った弁当を待合室でがっつき、12時23分の女川行きに乗る。そもそも石巻に来るのが初めてなので、当然ながら石巻線もノータッチ、今回が初乗車だ。

最後部に陣取ってぼーっとしながら旧北上川や万石浦などを眺めていると、女川にはあっという間に着いてしまった。12時49分着。

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5年前の再開時に建てられた、温泉施設が入る駅舎を見る。
石巻線は全体的には内陸部を走るためそこまで被害が大きくなく、女川の手前である浦宿までは比較的すんなり(といっても2年ほど要したが)復旧。しかしここ女川だけは様子が違い、海の奥まったところにある港町というところが災いしてか、15m近い大津波に襲われた。
駅周辺は壊滅的な被害を受け、大規模な再開発を行ったうえで石巻線の全線再開になんとかこぎつけたのは2015年3月。震災から4年後のことだった。

折り返しの列車までは少し時間があるので、港の方まで歩いてみる。

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駅前から続いてきた通りを突きあたりまで行くと、横倒しになった建物が姿を現す。

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これは震災まで使われていたかつての女川交番で、場所は倒れたままの位置と大体同じ。押し寄せた波には耐えたが、引き波に倒されてしまった、と考えられているらしい。周辺の再開発やかさ上げが進む中、旧交番だけ取り残されており、震災遺構として残すかどうかは検討中、とのことだ。

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港の岸壁をぐるっと見回して、iPhoneのパノラマ機能で収めた1枚。海風が冷たかったが、いい天気で、水面と青空がよく映える。個人的にはなかなかお気に入りの写真だ。

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通りの突き当りから駅方向を見る。かつての駅は海近く、このあたりまで続いていたが、現在はバックして跡地には商業施設が整備された。

波乱の帰り道

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ふらふらとさまよっているうちに、折り返し小牛田行き発車時刻の13時24分が迫っていたので、ちょっと急ぎ目で駅に戻る。まだここは牡鹿半島の入口、次に訪れたときはもう少しのんびり見て回りたい。

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浦宿を出ると列車は万石浦に沿って走る。名前は「ここを干拓すれば1万石の米が取れるだろう」と仙台藩の2代目である伊達忠宗が言ったとか、なんとか(諸説あり)。現在は牡蠣や海苔の養殖が行われているのだそうだ。

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昔のままの駅舎が残る渡波、無人駅の陸前稲井に止まって旧北上川を渡り、市街地に入って13時49分に石巻着。運賃表示器は気仙沼線もカバーしており、もう二度と列車が行くことはなくなった柳津以北の駅名も収められている。

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ここからは再び仙石線のターン。往路は1番線にいる仙石東北ラインの快速に乗ってきたが、復路は2番線にいる東塩釜・多賀城経由の普通電車に乗っていく。車両は東京のお下がり、205系だ。

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国鉄型らしいモーターの音を響かせて、14時24分、定刻通りに発車。車内はびっくりするぐらいガラガラだ。

各駅停車なので、陸前山下、蛇田、そして石巻あゆみ野と、各駅にこまごまと止まっていく。駅間距離が短いので、止まって走っての繰り返しだ。

少しうとうとしてしまい、目を覚ましたのは高城町。
川を渡ってしばらく進んで東北本線と合流し、さきほどの連絡線は渡らずそのまま仙石線を行く。

松島海岸で観光客らしき人たちがどっと乗り、空いていた車内はたちまちにぎやかになった。

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本塩釜を発車。市の中心部は東北本線の塩釜駅が近いが、港に近いのは仙石線で、車窓左手に目線を変えると、タンカーや貨物コンテナなどが見える。

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多賀城からはますます乗客が増え、車窓の大半は住宅が占めるようになる。石巻を出たあたりののどかなローカル線の雰囲気はどこへやら、すっかり通勤路線に様変わりした。

苦竹を出ると一気に地下へ駆け下りて、イーグルスの球団歌が流れる宮城野原を過ぎて、仙台に着いたのは15時50分。石巻からはおよそ1時間半かかった。

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こんなよくわからないショートショートを16時17分発の原ノ町行きに揺られつつ書き、

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鹿島にやっとのことでたどり着いたのは18時02分。下り列車の点検により駒ヶ嶺で足止めをくらったので、定刻より28分遅れての到着だった。

指定の地点周辺の地図 - Yahoo!地図 および他 5 ページ - 個人 - Microsoft​ Edge 2020_10_22 17_46_24

<了>

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