考えること、話すこと

僕は考え始めると、なんだか心がぐーっとしんどくなる。つまり、1人で色々と言葉を繋ぎ合わせて遊んでいると、いつのまにか沼にはまる。

それをやめて、考えなくなると途端にしんどくなくなる。だから、あまり1人の時間を作らずに友達と笑って、或いは友達と笑うために(面倒臭い)議論を諦めれば、基本的に僕は強くいられる。

でも強く在ればあるほど、僕の外側ばかりが固くなって、中身は空洞、かつ誰かからの心もパーンと跳ね除ける頑固な人になっていっているようにも思える。
それが僕の中ではとっても悲しくて、だから僕は人の心をスッと受け入れる奥行きをこそ求める。
その奥行きのために、僕は考えることをやめてしまうことができない。

だから結局、沼にはまるために僕はいつもいつも言葉遊びをしてみせるのだけれど、

僕はずっと、心がぐーッとしんどくなるのは僕の考えるテーマによるものだろうと思っていた。僕の興味関心が、僕の心を暗くするのだと思っていた。だからこそ幸せな哲学や幸福への哲学を求めていた。
しかし(或いはやはり)、それは違った。というのも、僕は考えることでというよりも、考えたことを評価されないことに対して自分の無価値さを自覚せずにはいられなかった。

評価されないというのは、もちろん
その考えは悪いとか、そんなこと考えたって無駄だとかと批判される、すなわち良いものと理解されない、ということ以上に、
「考えている」という行為そのものが厄介なものとして解釈されている、ということで、
僕はその理解の上に、考えるという行為を無視されているように思える。

だから、考えていない限り存在が全て理解されるのに、考えているという事実についてはその行為が(或いは行為する僕が)ないものとして認められる。

考えたことを話しだすと、急に僕は僕の影をなくしてしまう。だから僕が僕の影を保つために、話さないようになって、考えないようになる。

そんな風にして、
僕は僕の志向に素直であるために、人から離れていってしまう。人にしがみつくために僕は僕の興味を手放すことが望まれる。それは途端に僕が僕を殺す必要性を認めざるを得ないことと自覚される。


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