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教育ってなんだ(2024/4/29)

今日の日記

もはや日記ではないのだけれど
だから日記と書くのはやめにした方がいいのかもしれないのだけれど
日々の積み重ねという意味合いでは日記と言ってもいいような気もして
でもただの日々の情報の積み重ねということで終わる気は毛頭ないわけで。

だから、

「今日のひとこと」

別に「一言」でもないから甚だおかしな題なのだけれど、、、
少しお話聞いてください、ってことで。


今日のひとこと

最近、心が萎えていて、何もする気が起きなかった。
勉強も、読書も、何もする気が起きなくて、
だからずっとぼーっとしてた。

教員採用試験が近い。
正直これが、僕の無気力の根源なんだろう。
厳密に言えば、これに対する僕の想いが、だけれど。

学校の教師を志す

学校の教師なんてのは、そもそも今の時代よく思われるような仕事でもない。
教師を馬鹿なり世間知らずなりと見下すのがほとんどで、芸能人もインフルエンサーもこぞって日本の学校教員の悪口を吐く。

それは単に悪口というより、諦めと謗りの心が籠った(もはやそれは何も”籠って”などいないのだが)無関心であると言ったほうが近い。

そんな悪口に晒されて、なお教師を目指すことに何の迷いのない周りの学生には憐れみさえ覚える。

そんな悪口に晒されて、なお何の迷いのない教員志望の心を求める大人たちがいること、そしてその大人たちに取り込まれるために努めて迷いの心を排除する学生の多いこと、
なんたる屈辱と噛み締めずにはいられない。

多くの場合、即ち多くの学生は
その迷いの心を(それはあくまで無自覚的に為されるが)排除するために、”考えない”ようになる。
教師という言葉の意味、教育の目的、その目的を達するために必要な心、教育を施すということの意味、
その全てが考えられないままに、教師を志すようになる。

それは即ち、
「教育」がしたいのではなくて、
「教師」になりたい、
というただそのことに意識が綜合されていく仕掛けでもある。

僕の周りにいる、教員志望の学生は
「理想の教師像」は語れるのに、
「究極的な教育の理想」は一つも言葉に表せない。
「教育の方法論」には興味を持つのに、
「教師としての心」には無関心。

それはつまり、
自分が学校の中で見てきた教師たちの表面的な姿をのみ感じ取り、その「像」を理想化した結果である。
その「像」はただ見えているだけのものであるのに、その「中身」については全く知ろうとしないのはなぜなのか。

本質のない像を求めて教師になるから、教育は進んでいかない。

教育の目的

どこの社会でも、いつの社会でも、「教育」には常に目的がある。
それはまさにアテナイの頃から営まれてきた最も人間らしい社会性の伝授だ。

日本にもある種歪められた形で西洋の風が持ち込まれた維新の頃から「教育」は営まれていたはずである。それなのに、今になってその教育はどこを目指しているとも知れず、ただ「教える」ことを目的化しようとしているとさえ見える。

今の教育は、不確定性に満ちた社会に主体的能動的に生きるに耐える人格形成を目的とする、と言えるのかも知れない。しかしそれは、「教育の目的の如何」という問いにこれっぽっちも答えてはいない。

それは即ち何をなし得る人格であるのか、その人格でもって国はどうなるのか、その国でもって世界をどう変えるのか。
教育とは常に既に未来への進化と変革を希求する希望の体現手段であるのにも関わらず、その手段をこそ目的化してしまって、何も見えていない状態で、何も見ようとしないままで”教育”が為されている。

教育の核

無論、よりよく「教える」ための方法論を軽んずるわけでは全くない。しかし、その方法は伝えるべきものをより確かな形で伝えるための手段でしかない。

その伝えるべきものとは、知識である以上に心だ。
吉田松陰、福沢諭吉、渋沢栄一、、
教育を語る者には常に日本の未来を見据える眼とそれを確かなものへと推し進める心があった。
その未来を形作るために必要なものが、社会の構成する一人一人の国民の確かな知識であり、それを授ける教授であった。

心なくして教育は発生しない。

だからこそ、何をその心とするかということを身を粉にして突き詰めていくことが、「教育者」としての資質であろう。
その心を実際的に与えていくための指導法、支援の在り方を実践する能力は教師の専門性の最たるものではあるが、それが教師の核というわけではない。

こんなことを考えているから

こんなことはきっと教員採用試験では全く求められない。むしろ、こんなことを面接なんかで話したら、指導が入らない頑固者のレッテルに助けられて見事試験は脱落せられるだろう。

でも、こんなことはきっと暇で尖ってる学生の頃くらいにしか育てられない心のはずだ。
それなのに、こうした心への議論は全く為されず、教員志望の学生のすることといえば、小論文を時間内に書きおさめるための訓練とか、敬語の訓練とか。

僕はつまり、こんなくだらないことばかり考えて頭をグルグルさせているから、周りからは
「試験から逃げるな」
「最後までやり抜け」
とどやされる。



うん、確かに。
逃げているのかも知れない。

困ったな。

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