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\書きました!/に対する違和感の正体

きのうのよる。

いつものように締め切り間近の原稿を書いていたら、ふっと「これ、面白いのかね?」ともう一人の自分にたずねられた気がした。

私の「もう一人の自分」はほんとうに空気のよめないやつで困る。
もう大枠はできていて、あとは推敲すれば納品できたのにさ。

***

家で原稿を書くときは、布団の上でうつ伏せになったまま上体を起こした体勢が基本スタイルなのだけど(だから寝落ち率たかい)
気がついたらシーツにボタボタっと涙の粒が落ちていって、当の本人である私は、それをまるで傍観でもしてるみたいに

「あぁ、こいつ久々に泣いてるな」

と思った。

***

語弊を恐れずいうと、
私こんなの書いてます!じゃじゃん!!
と人に見せられる記事が、今あんまりない。
関係各位の皆様ごめんなさい手を抜いている訳では決してありません。

ただ、私が普段お仕事でお世話になっている人に話す「制作実績」は、
「私」が書いたことじゃなく
「そのメディア」自体が価値なんだと思い当たった。

「これを書きました!」じゃない。

「ここで、書きました!」なんだ。

最近、自分が書かせてもらった記事を
\書きました!/
といってシェアすることがめっきり少なくなったのには、言語化できてなかったそんな想いがあったのかもれない。

実は何度か、iPhoneで「書きました!」と入力してみては、心に違和感を抱いて「お手伝いさせてもらった」という表現に変えて投稿していました。

素直に「見てみて!書いたよ頑張ったよ!」と誰でもない誰かに向かってしっぽフリフリしていた時代はきっと終わってしまったんだな。ああ寂しいな。

求められた原稿を書くことに関しては、ちょっとずつだけどコツを掴んできたのかもしれない。
なんてありがたいことなんだろうと思う反面で、もう一人の空気がよめないわたしはずっとこじらせてるような気がして困る。ほんとに困る。

***

「正解」が見えてない原稿を求められるライターになるには、まだとおいなぁ。

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