子供の頃神話世界を生きたからわたしに小説はいらない

最近の小説がおもしろくないのは(おもしろくないというのは、興がないということ)、お前がいうなっていうことを前提にいうと、消費されることを前提に書かれているからなのだろうな。それは、普遍性を持たせる、ということとも違って、人間をまといこむ膜のようなもうひとつの世界がこの世にはあるのだけれど、人の世の現実ばかりを現実と呼び、頭だけで楽しむということが面白くないのだと思う。
ナルニアとかロードオブザリングとか神学者により緻密に作られた作品は、ハリポタも少々そうだけれど神世(かみよ)の世界が人の世の内界と繋がった世界がある。神世と内界はリンクする。神世はよく奇跡や暴動が起きる。目の前の世界で奇跡や暴動は起きないかもしれないけど、内界には奇跡や暴動が起きる。ハリポタをこぞって観るのはそうした神話性へのわたしたちの飢え渇き。

本は多量に速く読めと呼ばれる。一冊を深くゆっくり味わうことを私たちは忘れてる。深く味わいながらことばと向き合っているとき、それは音楽を聴いているときと同じだから、読んでいるわたしたちのこころが縦横無尽に動き出す。速読では決して生まれない、心の動きというもの。感動とは深い深いところのこころが生き物として動き出すということ。だから一冊の本が、いや、一篇の詩が、一句の短歌が、その人の人生を変えるほどのちからを持つ。体験として収納される。
そして、じぶんもいのちを使って、短歌や詩をかいてみたくなる。

宮沢賢治や石牟礼道子さんの作品は神話だ。石牟礼さんは子供の頃親から「岩は天から落ちた滴」と教えられたそうだ。ゆえに作品は事物ではなく象徴で紡がれる。賢治は法華経の神話を持つ法華経文学だ。

わたしは小中学校のとき、小説を読むのが大きらいだった。そのフィクション文芸を毛嫌いしていた理由が最近ふにおちてきた。田舎の港町で育ったわたしは、生活自体が神話に息づいていた。お盆はみんなで海に集合する。若い青々しい藁で編んだ船に、スイカやメロン、花を載せて海に流す。わけても初盆の死者は、村人が一ヶ月かけて作った二メートルほどの本物の木の船に魂をいれる。そして公園で8月13日に読経されながらぼうぼうと火柱をたてて燃やされる。
山に駆ければもののけがあり、わたしはともだちと二段ベッドをそこに運んで放課後くつろいでいた。親に「気を付けろ」と言われていたのは猟銃の弾丸だった。田畑に仕掛けられた雀脅しの「パーン」と山びこする轟音が、猟師の放った弾丸だとよくびびっていた。鬱蒼とした山中で、木のつるのブランコでただ揺れる。春は山菜を摘みに出る。つくしもせりも、タラもよく採れた。イタドリというクソまずい山菜は、水分が多くそこら中に生えていたが、これは「戦争中に採って食べたおやつやったんや」とばあちゃんに教えられてマヨネーズつけて口にぶっこまれた。やはりクソまずかった。

秋祭りはPTAのおじさんたちが女装して御輿を担ぐ。それとは別にだんじりを老若男女問わず引き回す。だんじりに乗ることができるのは地区ごとの選ばれし子供だった。選ばれた子供は一ヶ月以上前から神に奉納する舞踊を練習し、笛や和太鼓など雅楽の練習をし、そのために学校を早退してよい。教育さえも神事よりは下にあった。

私は小学校二年生でホウキで空を飛ぶ練習を毎日していた。友達と朝7:30に庭に集まり、30分飛ぶ(魔女の宅急便のキキの真似)。
「あっ今飛んだ!」
なんて友達と練習にいそしんだ。どちらの親もそんなことは止めなかった。
ある日夢の中に魔女の宅急便のキキが出て来て、すぐそこの裏山からキキの乗るホウキにに私が乗せてもらう夢を見た。だからわたしは最終的に飛べたのだと思う。

夏は海水浴をしていたけれど、お盆過ぎると海にいる死者から足を引っ張られるからやめとけ、とよく大人に注意されていた。クラゲが群生することを言っていたのかもしれないけれど、本当に足を捕まれるのかもしれなかった。
そんな海に釣糸を垂らして、自分で食べる(あるいは猫にやる)魚を釣る。夜には庭に狸がやってきて餌をやる。狸は家の光を金色の目に反射して、置いておいたドッグフードを食っていた。
私があの町で恐れていたのは野犬で、野放しの、棄てられたのではないマジな野犬がいて怖かった。小学生の私の背丈ほどあり、いつでも避難できるように下校時は塀づたいに帰っていた。

高齢化が進んでいたし病院もないので、しょっちゅう、しかも突然人が死んだ。地域社会が濃いので地域のじいさんばあさんが死んだら子供は必ず葬式に駆り出され、役回りはよくわからないのだがとにかく菊をもって町を練り歩き、墓までついていく。病院で死ぬということがまずなかった。
ホームレスとも狂人ともつかぬ変なおじさんも共同体の中に許容されていて、彼らは子供にとってはスリルを味わう良い遊びにもなっていた。近づいてきたらキャーキャー悲鳴を上げて息を潜めて隠れる。彼らは半分存在があの世にいるような人で、この世でないものを信託されて引き連れてくるような雰囲気をまとっていた。そしてどこからともなく現れどこかに消えていく。その住所地は誰も知らない。

だいたいわたしの町にはサラリーマンがいない。漁業、農業、酪農、この三本柱で成り立つ町は、景気のアップダウンより台風や日照りが怖い。収穫のときは例によって子供が駆り出され、わたしはじいちゃんから芋掘り(なぜか白いさつまいも)、椎茸、いちご、大根、にんじんの収穫を手伝わされた。土手沿いにあったじいちゃんちの、その土手では、また「二十年前、近所の二人兄弟が溺れて死んだ」などと聞かされる。その墓が近所の山肌に露出してあり、墓石ではなくセメントで馬の形がしてあった。

生きているだけで命の神話性に取り込まれていたわたしが、わざわざ紙媒体に複写されたようなファンタジーを知る必要はなかった。生活のなかに何が神的なもので、何があの世的なもので、どういう出来事が神と人との親和性なのか、世界の構築がそのようなものだった。

東京生まれのうちの子供は現実の変質者が怖いと思っているだろうが、私が子供時代怖かったのは「首吊り自殺があったと噂される神社」などだ。だいたい本当かもわからない、わからないという独特の畏れをまとった取り合わせ。学校の先生も好んで丸一時間怪談話に費やしていたし、町は戦争の爪痕も色濃く子供たちの遊び場は深く掘られたあちこちの防空壕でもあった。

人間を包むもう一枚の膜に、わたしは神話性と神の性質と混じりあい交信しながら、きっと生きていたのだ。

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