瀬戸しおり

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39.0度の熱気

七歳の子供がぺらぺらと論文の字面をAIが読み上げるような饒舌口調になっている。スピードが早く、いやにはきはきしていた。見ると顔は額と頬がまだらに火傷したように赤い。こふっと痰のからまない空咳をひっきりなしに始めた。 体温計を脇に突っ込む。首と脇回りのシャツが汗でじっとり湿っていた。なおも饒舌にボスベイビーの話を続けているのに割り込むように、体温計がピピっと鳴る。 39.0度‥‥‥。 息の荒い娘は興奮しているようにまくし立てていた。そのうち頬全体に赤みが増し、いちごあんのよ

    • どんぐりとまつぼっくり

      デスクの正面の本立てに置いている、すっかり干上がったように乾燥したまつぼっくり。それと、すでに先端から細いヒビが入ったどんぐり。どんなにうなだれても書くモチベーションを与えてくれるのは、いつもこの2個の古びた木の実だ。 まつぼっくりもどんぐりも、世田谷区にある日本最古クラスの精神病院である松沢病院の資料館近くで拾った。50年間看護人をやり、引退した案内人のおじいさまと2人ぶらぶら新館に戻ってくるとき、患者さんが大正時代作業療法で作った巨大な将軍池の縁で、枯葉や枝の積もる足元

      • 戦争の予言をしたオマエ

        中学2年生のとき、あまり話したことのないちょいわる男子と席が隣になった。ワルのヒエラルキーでも少しはみ出し者の、どこか空想的な背の高い男子で、つるんでいる輩はワルでも彼自身がいじめや暴力に加担することのないふわふわした変なヤツだった。 私はそいつと話すのが好きだった。あるときは世界で一番簡単な哲学書「ソフィーの世界」について語り合った。今でも出だしの一行を暗唱できる。「あなたはだれ? 世界はどこから来た?」そんなことを休み時間お互いの机に鉛筆でカリカリ落書きをし、ざわめいた教

        • 闇夜、闇よ

          薄闇の円に映りこむ茶色の球体は、金具のような細い筋を巻き込むように携えていた。思わず望遠鏡レンズから目を離した。黄土色に発光する土星、肉眼でも薄暗い闇に目立って見える。土埃の立つ誰もいない中学校のグラウンドは静かで、ネット裏につけた母の車だけのエンジン音が響いていた。姉は街灯にわずかに照らされた掲揚台のたもとで鉄棒によじのぼっている。 親に頼み込んで7万円する三脚付き天体望遠鏡を買ってもらった。初めて見た土星の環。7歳の私は宇宙の神秘にまた一歩近づいたのだ。心臓の鼓動が速くな

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        • 生きることは祈り【瀬戸しおり】
          47本

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          フィリピン、シマラ教会で聞いた声

          真緑の背の高いヤシが群生するジャングルの丘を越えていき、シマラ教会のゲート見えてきた。到着15分前からスコールが降りはじめ、クーラーのないシマラ教会に踏み入れるには環境は良くない。現地レンタカー運転手が駐車場につけてくれるころ、スコールは止んだ。さっきまでからからに干上がっていた南国の砂埃立つ地面は一気に濡れ、トングサンダルの私はぬめっとした駐車場に下りた。 マリアを祀るこのカトリック教会は、女性は足を露出してはいけない。日本でしまむらで買っていったロングスカートがまた下

          フィリピン、シマラ教会で聞いた声

          デス・ゾーン 栗城多史から炙り出された贖罪と愛

          私が自伝を書いたのは、小さい頃から人の自伝を読むのが好きだったからである。もしこれが小説を愛する文学少女であったなら、私は自分の人生にテーマとモチーフを与えて、あの体験を書いたのであろう。 さて、開高健ノンフィクション大賞を受賞した、「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」(集英社)を読んだ。栗城さんとは2018年エベレスト登山中に35才という若さで滑落死した「ニートのアルピニスト」とコピーを負った青年である。ノンフィクションも最近の本は、他人が精密に取材した物や事柄の本

          デス・ゾーン 栗城多史から炙り出された贖罪と愛

          人間に完全な自立はありません

          完全な自立を果たしている人などいない。完全に自立した人間を描け、と言われても、それは映画でも文学でも不可能だと思う。もし完全に自立した人間(それらはいわゆる聖人君子に見える)を描いた作品があったとしたら、それはキャラを作り込んで作品の上でそうしているだけか、むしろ書き手側や製作側のコンプレックスの投影で完璧に見えてしまっているだけだ。世に完全な人などいない。逆に人が完全に見えてしまったら、その見ている人が節穴であって完全でないのだ。 他人を完全だと思うことほど辛いものはない。

          人間に完全な自立はありません

          人に完全を求めた罪に泣く

          脱稿した。この一か月かなりコン詰めて原稿と向かい合った。原稿と向かい合っている間に心は原稿に運ばれるように微細に動いていって、それでもちょっとずつ、自分は前に進んで言っているんだなあと思った。 一番驚いたのはつい先週の土曜日のことである。「執筆に集中したいから」と私は夫と子供を1泊で彼の実家に追い出した。その直後のことである。泣いたのだった。声を上げてむせび泣いた。そのとき頭にあった映像は、10年前通っていた長老派教会の牧師先生とのやりとりの記憶で、 「私はときどき十字架を

          人に完全を求めた罪に泣く

          物語を書く⇒許し

          頭蓋骨を突き破るのが物語。物語は誰にでもある。その人の中にある。一分の体験も十年の体験も物語にすることができる。物語は衝動に似ている。あなたのなかにある衝動。少し危険に満ちた衝動。だからこそ物語は出てくるときちょっとまごつく。物語のほうからびくびくしてしまうのね。もしかして、頭がへんになっちゃうんじゃないかしらって、記憶は組み替えられ、組み建て直されることを嫌がるんだ。収納場所をAからB、あるいはA+BにしてC部屋に変えるのが物語を紡ぐということで、これには勇気が伴う。出して

          物語を書く⇒許し

          プラトニックな恋愛はどろどろより面白い

          コグレ(♂)はレンタカーを運転してくれる盟友である。だいたい私が社会見学ツアーを組むとき、コグレが運転している。 コグレとは約1年前に仕事で知り合った。当初ここまで旅を共にする唯一無二の親友になるとは想定しておらず、どちらかといえば私のほうが態度のデカいツボネ的存在であった。 関係も仕事も継続は力なりということで、いつしか仕事を飛び越えた付き合いが始まり、コグレは社会見学ツアーを組むと必ず運転してくれる人になった。こう見えてアート業界でばりばり働いているコグレを私はリスペクト

          プラトニックな恋愛はどろどろより面白い

          恋愛を超えた愛の物語

          あたしはあんたと、どんな物語をつくってきたんかな。出会いから別れまでたくさんのことがあって、泣いて笑って怒っての繰り返しだった。一番愛しているあんたに、気づいたらやっぱり一番泣かされてる。他の男にもさんざん泣かされたけどさ、やっぱり一番あんたに泣かされたよ。だけど、愛してるんだ。これはとっても不思議なこと。 あんたは老いて、あたしは介護するような人になった。どうしてここまで関わっちゃったんだろう。血も繋がってないのに、最初はあんたにおもりをされて、いつしかあたしがあんたを追い

          恋愛を超えた愛の物語

          乗り越えた記憶は新しい土台の下に潜る

          小説というのは誰かが見なければいけない現実を書くことだ。それは目に見えている世界では虚構かもしれないし、目を反らされた小さな世界かもしれないし、あるいはことばを使えない生き物や現象の世界かもしれない。そういうことを人間の言霊を使って、その誰かが見た現実の文字と魂を揺さぶり合っていくのが文学なのだと思う。 昨日古巣のライティング講座のオンライン同窓会に参加したのだが、なんだかつまらなかった。何がつまらないのかもわからないくらいつまらなかった。場や参加者、内容がどうのという問題

          乗り越えた記憶は新しい土台の下に潜る

          ヨハネの黙示録を読まなきゃわからないよ!聖書のラスト「神の裁きと愛」

          キリストの救いとはなんであろう。 受洗して2年が経とうとしている。求道から数えたら15年も経つのに、私は「キリストの救い」がいまいち理解できていなかった。それはあの膨大な聖書の世界観を知らなかったことも大きい。 聖書は66巻に分かれている。このうち65巻までは過去のものだ。すでに終わったもの。成就されている。この65巻までの最初から最後までが編纂されるまで2000~3000年もの時を隔てている。この数千年のときの間に、預言されていたことが鳥肌が立つほど忠実に成就されいった。そ

          ヨハネの黙示録を読まなきゃわからないよ!聖書のラスト「神の裁きと愛」

          神の約束:どんな過去もいいものに転じる

          聖書には6千もの神の約束があると言われている。そのなかで私が最も好きな箇所とは、新約聖書ローマ人への手紙8章28節だ。 「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 この御言葉は私の心をはなはだ打つものであった。平たく言えば「どんな過去も神はよきものに変えてくださる」という約束だからだ。 私の過去というものはプロフィールに乱書きしているように、辛いことが多かった。いつから辛かったのかと言われたら、やはり不登校をしたときかな、と思う。どん底だ

          神の約束:どんな過去もいいものに転じる

          刑務所を見学して

          昭島市にある成人矯正医療センターへ行く。名前からはわかりづらいのだがこの施設は刑務所と少年院の併設した施設だ。名称が〇〇刑務所となっていないのは地元住民や自治体の反対があったからというのが大きな理由らしい。 私にとっては初めて刑務所内部に入った体験だった。ここの刑務所が他の刑務所と違うのは病院刑務所だということである。透析や感染症を持った受刑者がここに来る。ICUが6床、手術室も3室ある。透析は30台もあるそうだ。あまり知られていないのだが、コロナのクラスターが起きた刑務所

          刑務所を見学して

          なんのためでもだれのためでもない

          なんのために だれのために かんがえるとつまらなくって なんのためでも だれのためでもない そんなせかいにいるということ そんなせかいがあるということ

          なんのためでもだれのためでもない