デス・ゾーン 栗城多史から炙り出された贖罪と愛
私が自伝を書いたのは、小さい頃から人の自伝を読むのが好きだったからである。もしこれが小説を愛する文学少女であったなら、私は自分の人生にテーマとモチーフを与えて、あの体験を書いたのであろう。
さて、開高健ノンフィクション大賞を受賞した、「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」(集英社)を読んだ。栗城さんとは2018年エベレスト登山中に35才という若さで滑落死した「ニートのアルピニスト」とコピーを負った青年である。ノンフィクションも最近の本は、他人が精密に取材した物や事柄の本をノンフィクションと呼ぶので、この本は北海道放送の河野啓氏による栗城さんが語られる。
昨晩夜な夜な読んでいて、かなり息が苦しくなった。内容は栗城さんはメディアやSNSによる演出の劇化により、自らを祭り上げざるをえなくなり無謀なエベレスト登山という悲劇の死を遂げた……という方向を持ち向かっていくのだが、私が息が苦しくなったのは、この栗城さんという方を影も形も知らなかったからであろう。
栗城さんがヤフーと提携し登山動画を配信していたこと、各地で講演をしていたこと、茂木健一郎さんなど数々の著名人と対談をしていることもSNSで騒がれていたことも知らなかった。
知らない人の不幸をどこかファンタジーのような距離がありながら「それでも現実に起きたことなのだ」と読み進めるのは辛いものがある。
あくまで筆者の目線で書かれている本だから、ラストは母の死を追って自ら死ににいったのでは……といった憶測で閉じられることも、お化け屋敷のような仮想現実の中で誰かの意図した語りのなかでその現実を経験するようなそら恐ろしさがあり、ご本人亡き今真偽の確認しようがないこともまた、ものすごく恐ろしい。こういったノンフィクションはフィクションよりも距離が置きにくい。なんだか本当だって思ってしまう。真実でないけど真実なはずだ、と読まされていくことが恐ろしくて、苦しかった。しかもまったく知らない人の話だし……。
私個人としてはこの本は、栗城さんを有名人に祭り上げた著者の贖罪の本に思えてならなかった。なぜ止めなかったのだろう、なぜ登山企画に加担したのだろう。人は罪悪感を抱えるとどこかでその重荷を下ろさねばその人の人生が止まる。私は感情の中で罪悪感ほど厄介なものはないと思っている。自分がおかしたある罪を正面から認めたとき、足元から崩れ去る恐怖を秘めてなかなかその十字架を認められない。だから広島に原爆を落としたエノラゲイ乗組員もパールハーバーのせいにしてSorryという一言が言えないし、政治家も空疎な「撤回します」しか言えないのだ。認めた瞬間崩れ去る。それでもくすぶり続ける内面の罪は消えない。
つまるところデス・ゾーンの読書によってそういうところに連れていかれた私は、自らの思い出したくない罪責感を思い出して、読み終わり本を閉じてから泣いてしまった。「ごめんなさい」と言いたい人は近くにたくさんいる。だけど言えずに来た。母もそうだし医者もそうだ。大切な人こそ、そこに深い愛が眠るからこそ(例えそれに気づいていなくても)、罪責感はくすぶられ、どうしてあんなことやこんなことをしてしまったのかと記憶が呼び起こされてはしばしベッドのなかで放心して、打ちのめされた。
もっとこうしてあげればよかったのではないか、なぜあんなことを言ってしまったのか、なぜ相手の状況には無知でいようとしたのか。考えは止まらず、とにかく夜中に肋骨がぐぐぐと狭まったように苦しく、眠れそうもなかった。
起き上がってNetflixでSex and The Cityを観ながらマカロニサラダを食べて、寝たのは深夜2時。厳しい闘いだ。
この本に釣られるように一夜明けた今日、デス・ゾーンの読書体験で炙り出された母などへの罪悪感をnoteに書き記しているのも、デス・ゾーンの著者のようにこのもやもやした感情を吐き出して楽になりたかったからだろう。著者が最後、登山家ではなく栗城という青年自身に深い愛を見いだしたように、結局私が見いだしたものも傷つけ傷つけられした果てにある母などへの、やはり、同じような、深い愛であった。
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