見出し画像

ゲイ友

生まれて初めてゲイ友ができた。レズ、バイ、性同一性障害と呼ばれる友達はたくさんいたけれど、ゲイの友達は初めてだ。
温泉や銭湯で男湯に入り男の性器を見たら勃起するという彼に私は「かっこいー!」と悲鳴にも似た歓声を上げた。感動したのだ、それってどういう心理だろう。同性に性的興奮を感じるという私には見えない触れられない世界。レズならわかるけれど(自分の性自認が女であるがゆえ)、男から男への性的嗜好というのは、そもそも異質な生物から異質な生物への興奮なわけで、興味関心とか飛び越えて本気でかっこいいと思った。美辞麗句を並べたいわけではない。代弁できない世界の存在に私は私自身の勉強不足も感じたし、そういうまだ見ぬ世界がまだまだこの世には溢れていることを知っただけでも、そして何よりその子が私の大切な友人リストに加わったことも嬉しいことだった。

GW中、その子の家になぜか子供を連れて遊びに行った。その友達が背が高く眉目秀麗なためか我が娘7歳は早くも目をぎらぎらさせてガン見していた。いや、あんた、我慢しなさい、そいつはあんたなど目にも入らないのだから。っていうかお前イケメン好きすぎだろ。という話はさておき、私は本当にいい友達を持ったと思う。話せば話すほど思うのは、性的嗜好など人格の成熟具合に何の関わりがあるのだろうということだ。誰がどんな嗜好を持っていようとその人の人間としての器や包容力、知性が変わることはないのだ。
同時に、いまだこういった人たちが虐げられる社会システムが存在するのは脳みそを持って生まれたはずの人間の知恵の使い方としてどうなのかと思った。ただただその子がメジャーでないほうのエリアに存在するというだけで得られない権利があるというのはあまりにも不公平ではないか。そもそもそれは、自分の意思で選択しえない持って生まれた性質ではないか。今でも賃貸借も男2人のカップルでは不動産屋で門前払いされることもあるそうで、話を聞きながら「なんやねんそれ、Hell Japan」と思った。よく「時代が時代が」というが本当にそれは時代や世代の問題なのだろうか。LGBTQに理解が進んだ今はなんだかマシな世界になっているよね、という話ですまされることなのだろうか。なぜか私は人間がもっと深淵に考えなければいけない、人間の本質に潜む黒々とした底無し沼のような淀みを見た気がする。
時代なんていつでもいいのだ。LGBTQといった話に限らず、人はどの時代にも絶えずマイノリティを作り弱者を作り、そういった人たちを押しのけたり迫害したりするという性質があるということを、時代に関わらず絶えず持っていなければならない。たまたまヒューチャーされやすいのが今はLGBTQであったとしてもそれは氷山の一角だし、社会が作り出してしまう弱者、遺伝的弱者、病気という弱者、能力の弱者など、便宜上マジョリティを産み出すために社会で使われやすいモノサシから、あぶれてしまうマイノリティなんていくらでもいる。マジョリティを産み出すとは同時にマイノリティを産み出すということ。多数派の幸福を産み出すとは少数派の不幸を産み出すことと同義だ。

便宜上マジョリティにいると思われる人でも、その人の蓋を開けてみればどのような人もマイノリティな性質を持っていると私は思う。隠したほうが人と表面上繋がりやすいから隠しているだけだろう。別にその性質は、性格でも趣味嗜好でも行動でも外見でもかまわない。みんながみんなどこかでマイノリティであることを自認することがすなわち多様性ということではないだろうか。それはつまり他人のマイノリティ性を自らに取り入れることでもある。面白いのは「相手も自分と同じ人間である」という思い込みによってのみ立ち現れる苦しみやいさかいに、私たちは案外気づいていないということだ。例えば夫婦や会社の人間関係でも、相手は自分と同じ人間という前提の上に立つから苦しくなる。
「ゲイだからその人は違う人間なのだ、理解を示さねば」という視点を持つことが大切なのではない。大切なのは「おしなべて人間だからその人は違う人間なのだ、理解を示さねば」という視点だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?