”死にたい”はどこから来るのか

開業してもうすぐ1年になる。先日、40歳になった。新しい患者さんと出会うことも、同じ患者さんと定期的に会って対話を深めることも、だいぶ前に私が別な病院で診ていた患者さんと再会することも、私にとってそれぞれに意味があって大切な時間になっている。

そして、患者さん一人ひとりの"死にたい"は一体どこから来るのかと、ずっと考えていた。死にたいというより、死にそうな人がいたら代わってあげたい、不慮の事故や病で死んでしまってもいい、自殺を毎日延期し続けている等々。決して焦燥的でもなく積極的でもない希死念慮。患者さん達の中にそれを見つけることがある。こういう実存的な悩みは発達障害やACの人のテーマだと感じていたが、これまでずっとぴったりくる言葉がなく、私の中では”慢性的な希死念慮””厭世観””空虚感”といった無味乾燥な言葉にとどまっていた。カウンセリングの中で共有できた言葉を集めていったら以下のようにまとめることができた。まだまだまとまりがないけど、現段階で言葉・文章にできた分をここに記す。

”死にたい”はどこから来るのか
①自分がない、自分が分からない、自分がそこにいない、文字通り地に足が付いていない感覚。
②解離していたり場面によって違うキャラの自分がいて、どっちが本当の自分っていうのもない。どっちも自分。どっちも自分ではない。そういう違和感。一貫した自分というものに収束しない感覚。
③大多数の人が自然にできる色々なこと(雑談、頼る、朝起きる、手を抜く等)が、自分にはできないという不全感。でも、普通な人間に見えるようにと気をつけて振る舞っている感覚。
④人や世界とつながったと感じられないという疎外感。誰かと居ても孤独を感じること。
⑤自分自身を自分で操縦できないこと。自分の感情の世話を自分一人ではできないという敗北感。
⑥過去が過去にならなくて、何度もつらい感情を味わわされ、同じ悩みを延々と考えさせられ、終わりが見えない。その状態から逃れたい気持ち。
⑦こういう不思議で複雑な自分を理解してもらいたいのに、自分自身が自分のこの苦しみを言語化できず、全く理解されないこと。

死に近い所にいる人は、きっと解離している、解離していてほしい、そして痛みを感じないでいてほしい、そういうふうに自分の心を守る仕組みがしっかり働いてくれるはず。私はそう信じる。つらい人に対して優しい世界を信じる。自殺する人は皆うつ病だった、という言説はしっくりこなかった。自殺する人は実存的な悩み・反芻思考・フラッシュバックの苦しみの中にいて、それを断ち切りたいほど苦しかった人、というほうがまだ理解できる。それでも本当の気持ちは分からない。分かりたいけど、分かりえない。ある人は「今度同じような事があったら死んでしまう気がする。切った記憶が無い」と言った。ある人は「飛び降りてしまいそう。そういう時はいつも、もう正常な判断ができないから助けを求められない」と言った。自殺企図する時、自分の意思を超えた何か大きな力が働いていると思う。

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