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ある日突然、ドアを蹴破られても

あなたには、誰かから突然銃口を突き付けられたことがあるだろうか。

私はある。


それはある午後のことだった。私は当時、大学院生としてパリに暮らしていた。その日は午前中だけ授業に出て、午後は日本から遊びに来ていた妹と街中で落ち合う予定にしていた。

授業が終わり、待ち合わせ場所に向かう時になって、私は家にささいな忘れ物をしてきたことに気付いた。それは本当にささいなもので、別になくても困らないようなものだったが、なぜか私は帰宅したい衝動に駆られた。乗りかけていたメトロを降り、自宅の方向へと引き返した。

当時住んでいたのは、パリ市内のサクレ・クール寺院からほど近い築80年ほどのアパートだった。これほど古いアパートというのは、別にパリでは珍しいことではない。玄関のコードキーを押して、薄暗い階段を二階へと上がった。廊下の突き当りを左に曲がった、少し奥まったところにあるのが私の部屋だ。そう、そのはずだった。


その日は何やら様子が異なっていた。

私の部屋があるはずのその場所には、いつもとは違う景色が広がっていた。

まず大きく違ったのは、その部屋にドアがなかったことだ。-―いや、正確には、ドアはばたんと開け放たれていた。そして今にも外れんばかりの不安定さでそこに佇んでいた。よくよく観察してみると、上下に連なっていたはずの蝶番の上側が、外れてしまっていた。下側のみが何とか踏みとどまり、ドアを壁につなぎとめる最後の砦の役割を果たしていた。

唖然としつつ、辺りを見回してみると、他にも普段と異なるところがあった。まず木製のドア枠が、至るところボロボロに破壊されていた。バールやくさびのようなものを所々打ち付けたような形跡が残っていた。そしてそれにより生じたとみられる木くずや木片が、辺り一面に散乱していた。

一体何が起こっているのか。

事態をうまく飲み込めないまま、私は階段のホールへ戻った。そして階数を確かめた。そこには確かに 「1e」(日本でいう二階)と書かれてあった。

そしてまた自分の部屋の方へと引き返した。今度はいつもの光景が待っているような気がした。疲れてぼうっとしていたのかもしれない。あるいは部屋を間違えたのかもしれない。しかしそんな私の淡い期待はすぐに打ち砕かれた。

そこには先ほどと変わらない、あたかも強盗事件の現場のような光景が広がっていた。

事件。

強盗に入られたか ―― 。

急いで私は部屋の中を点検した。しかし、すぐに明確な事実に直面した。私の部屋は、何一つ荒らされていなかった。朝そこを出た時と寸分たがわず、恐ろしいほどに片付いていた。引き出し一つとて開けられた形跡はなかった。デスクの上に堂々と置きっぱなしにしていたiPadすら、盗まれていなかった。とにかく強盗の被害に遭ったわけでないことだけは明白だった。

じゃあ一体何が起こっているのか。

もしや、大家が私への通告なしに勝手にリフォームの予約でも入れたのだろうか?
残念ながらパリではそんなことも日常茶飯事である。ちょうど先週も、水道管の点検が何の予告もなしに突然入り、一晩中水が止まってひどく迷惑をしたことがあった。

私は大家に電話を入れた。

「ボンジュール、マダム。志帆莉です。つかぬことをお伺いしますが、今日は部屋のリフォームか何かが入っているんでしょうか?」

「……マダム、何を仰ってるの?」

沈黙が流れた。

「……部屋のリフォーム? そんな予定はありませんけど……。どうかなさったの?」

私は事情を話した。
一瞬の沈黙が流れた。

「……マダム、恐らくそれは事件です」

大家の声色がワントーン低くなった。

「急いで警察へ行って。……強盗未遂かもしれないわね。最近この界隈で多いらしくて。とにかく急いで。警察に行ったら、事情聴取書の控えをもらうことを忘れないように。後々必要になるから。同時に保険会社にも連絡を」

この状況下に恐ろしいほど冷静な大家の指示を、フワフワとした頭で私は聞いた。電話を切ったあと、とりあえず妹に連絡を入れた。ざっと状況を話し、生憎午後の外出ができない旨を告げた。妹は驚いた様子で、すぐに帰宅すると言い電話を切った。

とりあえず、ぼうっとしていても仕方がないと思い、警察署の住所を調べることにした。保険会社の書類も取り出してみた。しかし何度内容を読み込もうとしても、難解なフランス語の文面は私の頭上をお経のようにすり抜けていった。

そんな時だった。ドアの方から、何やら男性の話し声が聞こえてくる気がした。私はドアの方に視線をやった。半開きにしていたドアの向こうから、ヒソヒソと低い話し声が聞こえてくる。癖のあるフランス語で、何を話しているのかは聞き取れない。嫌な予感がした。しかしドアの向こうを確かめる勇気は、私にはなかった。凍りついたように私は息をひそめた。しばらくすると男性の話し声は聞こえなくなった。

私はドアの方にそろりそろりと忍び寄った。そしてドアの陰からひっそりと廊下の方を見やった。そこにはもう誰もいなかった。ただそこには、明らかなる人の気配と、普段嗅ぎなれない独特な残り香が漂っていた。

ぶるっと身震いがして、私は半開きのままにしていたドアを閉めようとした。あろうことか、ドアは閉まってくれなかった。もう一度半開きにして、今度は勢いよく手前へと引き寄せてみた。結果は同じだった。どうやらダメージを加えられた際にドア枠がひどく歪んでしまったようで、扉が上手くはまらない。私は絶望的な気持ちになった。ドアが閉まらない部屋で、今後どうやって暮らしていけば? しかもタイミングの悪いことに、日本から訪ねてきた妹もいる。私一人なら路頭に迷ったって構わないが、妹まで路頭に迷わせるわけにはいかない。そもそも今晩をどうやって過ごせば……。

そうこうしているうちに妹が帰宅してきた。

「……お姉ちゃん、大丈夫?」

妹の目からも明らかに異常事態と映ったようだった。妹を過度に心配させないよう、私は極力明るい調子を努めた。

「ハハハ……。せっかく強盗に入ったと思ったら、盗るものがなくてガッカリして行っちゃったのかな」

事実そうかもしれなかった。この大掛かりな仕事に見合うような成果物は、生憎この部屋のどこにも隠されていなかった。

「とりあえず警察に行ってくるから、悪いけど留守番しててもらえるかな」

この状況下、鍵もかからない部屋に右も左もわからない妹を置いていくのは気が引けた。しかし大家のアシスタントが訪ねてくることになっていたため、部屋を無人にしておくわけにもいかなかった。

私は志帆莉の妹です。姉はすぐに戻ります。生憎私はフランス語が話せません


そうフランス語で走り書きしたメモを妹に託した。誰かが来たらひたすらこれを見せてしのぐようにと告げ、足早に警察署へと向かった。


警察署は自宅から10分ほどのところにあった。入口で受付を済ませ、二階に案内された。フランスの役所の順番待ちほど過酷なものはない。数時間待たされた挙句、順番を忘れられていたり、理由の分からない順番飛ばしをくらったりなどは日常茶飯事である。祈るような気持ちで私は順番を待った。10分ほどそうしていた時だろうか、思いのほか早く私の名前が呼ばれた。

部屋に案内されると、そこには男性警察官が既に待機していた。髭を生やす前のキアヌ・リーヴスにそっくりの、胸板が厚めの男性警察官だった。突如として、不要な胸のざわめきが去来した。制服のシャツにはぱりっと糊が効いており、襟元には丁寧にアイロンがかけられていた。自分のぼさぼさに振り乱した髪が、みじめに思えてならなかった。ロマンスの大国フランスとはいえ、今この場にいかなる種類のロマンスも起こり得そうになかった。

「……ボンジュール」

事件このかた忘却のかなたにあった笑顔を振り絞り、私は警察官に挨拶をした。彼は何か忌まわしいものでも見るような顔つきで私の方を一瞥し、「着席を」とだけ告げた。私の心は小さく傷ついた。全ての会話は挨拶からはじまると教えられているフランスにおいて、私はいまだかつて挨拶を無視されたことがなかった。傷ついたと同時に、軽いカルチャーショックも受けていた。

私の動揺などお構いなしに、彼は執務に入った。朝出かけたときから事件の発見に至るまでの経緯を時系列で説明するよう、彼は私に求めた。その言い方もいたって事務的なものだった。フランスでは日本以上に、警察官が権威的な扱いを受けていることについては承知していた。しかし事件の被害者である私に対して、一抹の優しさも見せてくれない彼の態度は、私の心をひんやりと冷たくした。

フランス語が決して流暢とは言えない私にとっては骨の折れる作業だったが、とにかく思い出せるままに朝からの経緯を話しはじめた。

「朝9時頃にアパートを後にして、大学へ向かいました。部屋にはまだ妹がいました。妹が出かけたのは……恐らく11時頃だったと思います」

話し始めた直後から、私はさらに居心地の悪さを感じるようになった。目の前の警察官の表情が、微動だにしないのである。まるで能面のごとく、眉間に深いしわを刻み、コンピューター画面にひたすら私の供述を打ち込んでいる。私の一人語りに対し、相槌すら打ってくれない。彼の警察官には似つかわしくないほど美しい顔立ちが、事態をより一層悪くした。その冷たく、彫刻のように動きのない表情は、真剣のように私の心に突き刺さった。私は激しく動揺した。このまま話し続けて良いのか、一呼吸置くべきなのかもわからない。

沈黙が流れた。

警察官のタイピングの手が止まった。

“...... Et alors?” (それで?)

はっとした。キアヌ・リーヴスが、こちらの表情を覗き込んでいた。恐らく彼と視線が合ったのはそれが初めてだった。静かな電流のような衝撃が、私の胸をかすめた。

「あ、はい、えっと、それで……」

どこまで話していたんだっけ? 途切れることのない緊張感に加え、警察官と目が合ったことの動揺で、私は我を失いかけていた。

「帰宅したのは何時頃でしたか?」

「あぁ、えっと」

一時頃だと言いたかった。

「えー……、アン、ユヌ、アン……」

キアヌ・リーヴスは、怪訝そうな眼差しをこちらに向けた。

「アン…ユヌ……えーと……あれ…」

午後一時という単語が出てこない。

ちなみにフランス語で1時は “Une heure”(ユヌール)である。フランス語の単語には男性形と女性形の読み方がそれぞれあり、1という数字の場合、「アン」(男性)と「ユヌ」(女性)という二つの言い方がある。時間表現は女性形が採用されるため、1時の場合「ユヌール」となるのである。いたって基本的な単語だ。フランス語初心者が最初の一ヶ月くらいでささっと習うような話である。

しかし曲がりなりにもパリ大学の学生をやっている私は今、「午後一時」が男性系か女性系かという問題について、思案に暮れ我を失いかけていた。元々学習者にはややこしいと悪名高いフランス語の文法を、これほどまでに呪ったことは後にも先にもなかった。

キアヌ・リーヴスの両手は止まったままだった。彼のその能面のような表情も、そのままそこに張り付いていた。凍りつくような沈黙が流れた。答えを探し求めるように、私は窓の外を見やった。二階の窓からのパリの景色が、清水の舞台からのそれと重なった。もういっそここから飛び降りてしまいたかった。

その瞬間、どこからともなく神のお告げが舞い降りてきた。

「……ユ、ユヌール!!!!!!」

エウレーカ! と叫んだアルキメデスのような形相であったに違いない。次の瞬間、思いがけないことが起こった。

「……フフフ……」

もはやダース・ベイダーのマスクにしか見えていなかった警察官の顔が、なんと歪んでいた。

「ハハハ…ハハハ……」

彼は今や、声を出して笑っていた。

私も笑った。無骨な取り調べ室に似つかわしくない無邪気な笑い声が、しばしその場にこだました。


しかしそれは一瞬のことだった。

「一時に帰宅して、ドアが壊れているのを発見した。その時、室内に他におかしいところはありませんでしたか」

彼は元の冷酷なキアヌ・リーヴスに戻っていた。それはあまりに一瞬の出来事だった。私と目線を合わせることもなく、PC画面を睨みつけながら彼は質問を続けた。

「えーと……特に何も盗まれていなかったんです」

ぴしゃっと頬をはたかれたような気持ちがした。

「ただドアが壊されていただけで……。あと、ドアの木枠がめちゃくちゃに破壊されていて……」

突然現実に引き戻された気がした。強烈な心細さが押し寄せてきた。今や見る影もなくズタズタに破壊されたドアの光景を思い浮かべた瞬間、胃のあたりがキリキリと痛むような感覚を覚えた。私は口をつぐんだ。思いがけず涙が出てきそうな衝動に気付き、必死でこらえた。警察官がカタカタとタイピングをする音だけが、機械的に室内に響いた。

「……日本でこんな犯罪ってあるのかい?」

それまでとは少しトーンの異なる質問に、私は顔を上げた。

「……そうですね、あるにはありますが……」

私はしばし考えた。

「でも、ここほど一般的じゃないかもしれませんね」

「どうして日本では犯罪が少ないのかな」

タイピングの手を止めて、キアヌ・リーヴスはふと窓の外を見やった。つられて私もゆっくりと視線を外に移した。

「日本には、互いにリスペクトする文化があるからかな」

眼下に広がるパリの街並みを眺めながら、私はそれについてふと考えてみた。もしそうだとしたら、日本はどれほど素晴らしい国なんだろう。純粋にそう思った。それについては言葉を返さず、微笑を返した。

「ドラゴンボールって知ってる?」


私は完全に会話の流れを見失っていた。もちろん私はドラゴンボールを知っていた。しかしこの会話がどの方向へ向かおうとしているかについて、私は知るよしもなかった。

「はい、知っています」

「面白いよね」

「…………」

私がドラゴンボールについて持っているおぼろげな知識といえば、亀仙人とクリリンくらいのものだった。生憎、楽しいかどうかについては意見を持ち合わせていなかった。代わりに私は質問を返した。

「……フランスでも人気なんですか?」

「もちろん人気だよ。フランス人ならみんな知ってるよ。特に男の子は」

「意外です」

「日本のアニメはフランスでも全般的に人気だね。NARUTOとかもすごく流行ってるし」

今や私は、目の前の警察官が自分の職務を忘れているのではないかと不安になりかけていた。こちらは自宅のドアが破壊されているのである。今晩寝る場所にすら困っているのである。そんな哀れな一人の女を前に、ドラゴンボールやNARUTOの話題を嬉々として語るキアヌ・リーヴス。このちぐはぐな状況は、私の理解の範囲をとうに超えていた。

「フランス国内ではどこか旅行に出かけたのかい」

話題がまた変わった。今や私たちの会話はアマゾン川の流れよりも複雑な様相を呈していた。

「へぇ? あぁ……、えっと、年末にアルザスの方へ」

「それから?」

「他には……、あぁ、アヌシーやフレンチアルプスの方へも」

今度は私の行動追跡でもしているのだろうか? 今度は私が警察官を訝しむ番だった。私の行動に何か怪しい点でもないかと、詮索でもしているのだろうか?

「アヌシーはいいところだね」

警察官は何かを思い浮かべるような表情を見せた。

「そうですね」

とてもそういう気分にはなれなかったのだが、とにかくこの場を持たせるためだけに、私は年末のフレンチアルプスへの旅行について思い出そうとした。

「アルプスのふもとの湖に白鳥がたくさんいました……。ちょうどクリスマスマーケットの時期で……」

美しい湖の景色に、色とりどりのクリスマスマーケット。湖のほとりで白鳥を見ながら、ホットワインを飲んだこと。絵本から飛び出してきたような、アヌシーの美しい旧市街の景色……。

ふと警察官が立ち上がった。背後のプリンターから書類の束が勢いよく吐き出されてきた。彼はそれらを束にして机の上でトントンと軽く整え、私に手渡した。私のしばしの記憶の旅は、再び現実へと引き戻された。

「この書類は後々必要になるから、無くさないように。この後お宅へ鑑識を手配します。夕方5時頃は自宅にいますか?」

「……はい、在宅するようにします」

永遠に続くかのような事情聴取は、終わりを迎えようとしていた。

「……ありがとうございました」

私は書類を受け取った。

「……本当にありがとうございました…………」

警察官に対するとめどない感謝の念が、心のうちから湧き起こってきた。私は思わず警察官の両手を握りしめた。

「感謝します。本当に感謝します。ご親切にして下さって! 本当にありがとうございます!!」

私のあまりに猛烈な感謝の表現に、警察官は戸惑っているようだった。同室の他のブースで取り調べを受けていた他の訳ありげな人たちも、皆一様に私と警察官の方を凝視した。

「仕事ですから」

警察官はそう簡潔かつ事務的に言い放ち、私をそっと出口の方へ促した。私はローマ教皇に謁見したカトリック信者のように名残惜しい気持ちで彼の両手をゆっくりとほどいた。そして何度も感謝の言葉を口にしながら、じりじりと後ずさるようにその場を後にした。取り調べ中、キアヌ・リーヴスは日本人の互いを尊重する文化について言及したが、あの場面での私の姿は、彼がイメージする日本人像そのものであったに違いない。



帰宅すると、自宅には妹が一人でポツンと所在なさげに佇んでいた。誰か訪ねてきたか訊くと、誰も来なかったとのことだった。私はふと時計を見やった。あれほど長丁場に感じられた取り調べは、ものの小一時間ほどの出来事であったことを知った。昼食すら取っていなかったことに気付き、簡単なパスタを作って二人で食べた。夕方5時頃に鑑識が来ると言われていたが、6時を過ぎても来なかった。そのくらいは想定の範囲内だった。

夕食の準備に取り掛かった夜7時過ぎの事だっただろうか。来客のブザーが鳴った。ドアを開けると、大型のアタッシェケースを下げた二人の女性が立っていた。警察官の服装をしていなかったため一瞬分からなかったが、彼女らが鑑識課の職員とのことだった。簡単な受け答えをした後、彼女らは作業に入った。現場に立ち会うよう要請され、私はドア付近に留まった。

アタッシェケースから彼女らが取り出したのは、サスペンスドラマなどでよく見る、あの指紋採取用の大きな綿毛がついた棒だった。そこに何やら粉のようなものをつけて、ドアを隅から隅までポンポンとはたき始めた。

― ―本当にこういうことやるんだ。

事件の当事者であるはずの私の心境は、いっとき野次馬のそれと変わらないものになっていた。

一瞬にして現場は刑事ドラマの舞台と化した。

「何か室内に犯人のものと思われる物品が落ちていたりはしませんでしたか?」

「ドアやその他の場所に見慣れない付着物などが着いていたりはしませんでしたか?」

ドアをポンポンとはたきながら彼女らは淡々と質問を投げかけた。さながら私は刑事ドラマの被害者であった。キアヌ・リーヴスと同様、彼女らもいたって事務的な態度でそこにいた。しかし少なくとも彼女らは私を被害者扱いしてくれているという感覚が、私の心をやわらかくした。

一連の作業が終わると、彼女らは調査が終わった旨を記したメモのような書類を残して去っていった。

ものの30分ほどの出来事だった。

私はまたもや奈落の底に突き落とされたような気持ちになっていた。嵐の後の静けさのようなものがそこにあった。これで一連の警察の取り調べは終わったのだろうか。ではこれから私はどうすれば? 何のアドバイスも指示も残さず、キアヌ・リーヴスも鑑識作業員たちもみんな去っていってしまった。後に残されたのは、この鍵のかからない、本来の役割をもはや果たさないドア一枚と、日本から来た妹、そして自分だけであった。

しかし感傷に浸っている暇などなかった。ドアが破壊されているのだ。鍵のかからない部屋で一夜を過ごすわけにはいかない。運の悪いことに、ここはパリなのだ。日本ならまだしも、パリの夜では何が起こるか分かったものではない。

私は改めてドアと対峙した。事件以来、一度も閉まったことのないドアを改めて点検してみた。再びドアを勢いよく閉めてみようとした。やはりガタガタのドア枠が邪魔をして、うまく閉まってくれない。改めて枠の方を点検してみた。壁側にあったはずの錠の受け座は、もろとも引っこ抜かれてしまっていた。絶望が頭をもたげた。私は恐る恐る鍵のつまみに手を伸ばし、そっとひねってみた。ガタンと音を立て、鍵はぐるりと回った。かすかに希望の光が差し込んだ。幸い、鍵自体の機能は失われていないようだった。

しかし問題は、ドアそのものが閉まってくれないことである。たとえ鍵が無事であっても、扉が閉まらないのでは元も子もない。しかも鍵の受け座まで引っこ抜かれてしまっている。もし仮に扉が閉まったとしても、鍵がうまくかかってくれないかもしれない。

お手上げだ。もはや強盗だろうが人殺しだろうが、完全に顔パス状態である。

絶望が全身を包み込もうとする中、私は一呼吸おいた。そして次の瞬間、全身全霊の力を込めて、ドアをおもむろに手前に引いた。

バタン!!!!!!!!!


扉は閉まった。

すかさず鍵のつまみを回してみた。ガタン。鍵は回った。鍵の受け座の方を見た。


奇跡かと思った。


鍵の受け座があったその場所には、接着用のわずかな石灰片が残されていた。その数ミリの石灰片に引っかかるようにして、鍵がかかってくれたのだ。

「鍵が……、鍵が、かかった!!!!」

「えっ!!」

祈るように背後から一部始終を見守っていた妹が駆け寄ってきた。

「ほら……かかってる」

私は扉を前後に動かしてみせた。ドア枠に残された数ミリの石灰部分が、今や私たちの命をつなぎとめていた。

「やったぁ……」

私と妹は、手と手を取り合い小躍りをした。ドアの鍵がかかるという、これまで当たり前と思っていたことを、ここまで有り難く思う日が来るとは思ってもみなかった。恐らくその鍵は、女性の脚で蹴り飛ばされてもひとたまりもないような強度であったに違いない。それでも、ドアが施錠された事実に変わりはないのだ。たった数ミリの石灰片でつながっているこの鍵は、今の私にとってはセコムのホームセキュリティよりも心強く感じられた。

とりあえず、妹と二人で路頭に迷うことだけは避けられた。残る問題は、ドアの修理をどうするかだ。仕事よりバカンスを優先するフランス職人と、保険金の支払いを渋ることで悪名高いフランスの保険会社が相手である。厳しい戦いになるであろうことが予想された。しかし今はもう、鍵が無事閉まったことに満足してとにかく一日を終えたかった。何はともあれ命はつながったのである。一連の騒動で心身ともに疲れているであろう妹にも配慮したかった。交代でシャワーを浴び、眠りにつくことにした。こうして長い一日が幕を閉じた。


……かに思われた。

******


深夜のまどろみの中、ある物音に私は目覚めた。まぶたを開けると、見慣れた自分の部屋が暗闇に浮き上がってきた。隣には妹が横たわっていた。少しずつはっきりしてきた私の意識が捉えたのは、女性のすすり泣きのような音だった。

悪夢でも見ているのだろうか。

妹は起きているだろうかと、 隣にいる彼女の呼吸に耳を澄ませた。どうやら眠りについているようだった。私は改めて意識を音の方に向けた。それが女性のすすり泣きであることは、今や確信に変わった。それはドアの方から聞こえてくるようだった。

廊下に誰かいるのだろうか? 

廊下からドアへと意識が移った瞬間、暗い感情がずんと肩にのしかかってきた。

冗談じゃない。すすり泣きの声の主が誰かは知らない。もしかして、人間ですらないかもしれない。でもそれが何だっていうんだ。例えそれが幽霊でも、鍵がかからないドアよりはましだ。幽霊だろうが妖怪だろうが、もはや何でもござれだ。実際この世で一番恐ろしいのは、人間以外の何物でもない。

私は完全に投げやりな気持ちになっていた。とにかく私は疲れ切っていた。隣で眠っている妹の体を飛び越えて、玄関の方に様子を見に行く気力など1ミリも残っていなかった。もはや全てがどうでもよかった。女性のすすり泣きのような音は、いつの間にかやんでいた。そしてまた私は浅い眠りについた。


*******


ドンドンドンドンドンドン!!!!!!!!!


「誰だ! 誰といる!!」

ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン!!!!!!!!!


激しくドアを叩き鳴らす音に、ベッドから飛び起きた。
隣で寝ていた妹も何事かと飛び起きたようだった。
室内はまだ暗闇だった。

「出てこい!」

私は急いで部屋の明かりをつけた。一瞬よそから聞こえてくる物音かと思った。しかしその激しい物音は、明らかに自室のドアから響いていた。私はすぐにドアを開けるのを躊躇した。覗き穴から様子を伺おうとしたが、廊下は暗く、あいにく状況がうまくつかめない。

「誰といる! 誰といるんだ!」

先ほどから聞こえてくる男性の野太い声は、明らかにこちらへ向けられていた。質問の意味すら分からない。私の脳内は混乱を極めた。しかしドアを開けるまで、この騒動が止む気配もなかった。妹と一瞬見つめ合った。私は恐る恐るドアを開錠し、扉を開いた。

その瞬間だった。

私の背筋は凍り付いた。

廊下の暗闇の中、飛び込んできたのは二人の黒人警察官の姿だった。次に彼らの手元で不気味に光る二つの物体が私の視線を捉えた。玄関の薄明かりを反射して生々しく黒光りするその二つの物体は、銃口だった。獲物を今や捕らえんとする蛇の目のように、その二つの図太い銃口は、左右から私の姿をまっすぐに捉えていた。

「そこにいるのは誰だ」

「いいいいいいいいいいい妹です」

私の回答を聞くや否や、警察官たちは銃口を下ろした。

「お前は何者だ」

恐らく実際はそんな口の利き方ではなかっただろう。しかし私にはそういう風にしか聞こえなかった。

「私は……岸 志帆莉と申します」

「職業は」

「学生です」

「大学は」

「パリ第五大学、ソルボンヌ」

警察官は室内を見やった。他に怪しい者でも潜んでいないかと捜索するかのような目つきだった。

長い一日を終え、ようやく眠りについたところだった。午後の事件発覚から、永遠に続くと思われた警察署での取り調べ。刑事ドラマの主人公になったあとの、夜中の幽霊騒動。それら全てを乗り越えて、無実な私の一日は終わろうとしていたのだ。それなのに。

私だって、常に正しく生きてきたわけではない。嘘の一つや二つ、ついたこともある。人を傷つけたことだってあるだろう。でも、いくらなんでもこんな一日の最後に、こんな仕打ちはあんまりだ。神様がいるなら呪いたいとすら思った。

「仕事はしているのか」

「家庭教師のアルバイトを少し」

一体全体、自分がなぜこのような尋問を受けているのか。意識がはっきりしてくるのと引き換えに、そもそもの疑問が頭をもたげた。寝ぼけた頭で理解しようにも、到底無理な話だった。怒りにも似た感情がふつふつと湧き上がってきた。

「ちょっとすみませんが……。これは一体何事ですか?」

「隣室で先ほど事件が起こった」

事件ならこちらでも起こっている。事件はまさに、この現場で起こっているのだ。

「どんな事件ですか? 差し支えなければ」

「隣室のドアの鍵が破壊された」

やれやれ……。

隣室に目をやると、もう一人の警察官が室内の若い女性に対応していた。その女性の顔にはかすかに涙の跡があった。明らかにまだ動揺しているらしいその女性は、最近引っ越してきたばかりのその部屋の住人のようだった。

ということは。
つまり、私はこの事件のいち容疑者として、事情聴取を受けているということなのか?

―― なんて日だ。

吐き捨てるように私は心の中で呟いた。
先ほどまで刑事ドラマの被害者だった私が、今や容疑者に成り替わってしまったのである。


「……うちも被害に遭っていますけど」

イライラを極力隠すように、つとめて私はそう言った。警察官は私の方を見直した。

「どういうことだ」

「うちのドアも被害に遭ったんです。見てください。うちは鍵だけでなくドア枠まで破壊されたんです。日中に警察署へ行って事情聴取も受けました」

警察官は改めて私の部屋のドアに向き直った。一通り注意深く点検したあと、彼は事情聴取書を差し出すよう指示をした。私はキアヌ・リーヴスから受け取った調書の束を、そのまま警察官に手渡した。

「夕方に鑑識の捜査も受けました」

そこで一瞬私はたじろいだ。自分で調書の内容をきちんと確認しておかなかったことを、そこで初めて後悔した。今や警察官の手に渡ってしまった調書の束を眺めながら、居心地の悪さにかすかに身をよじらせた。私は「午後一時」というあの簡単な単語が言えなかったくだりを思い返していた。もしかして、あのくだりも調書の内容に含まれているのだろうか? こんな簡単なフランス語すらまともに話せない、みじめな学生だと思われるだろうか? これでソルボンヌの学生だなど、バカも休み休み言えと? 鬱々とした感情が肩にのしかかってきた。日本では「カツ丼食うか」のくだりでさえ律義に記録されるなどという都市伝説もあるくらいだ。自分の恥がまた一つ白日の下にさらされようとしている瞬間を、私は指をくわえてただ見守っていた。同時にあれほど散々な一日を過ごしてきた自分の内に、まだ羞恥心のかけらが残っていたことにささやかな驚きを感じていた。

パラパラと調書の内容を確認した後、警察官はぶっきらぼうに書類の束を突き返してきた。

「また必要になるかもしれないから、この調書はしばらく無くさず保管しておくように」

既にキアヌ・リーヴスから受けたのと同じ指示を残し、警察官はそそくさと捜査に戻っていった。妹と私は、またも所在なくその場に残された。狐につままれたような気持ちで、ぽかんと互いを見つめ合った。もはや一連の騒動によって感覚が麻痺しているのか、疲れや眠気によって感覚が鈍っているのかもわからなかった。私たちの間にはもはや、いかなる種類の興奮もなかった。今が何時かすらもわからなかった。とにかくもう、何をおいても眠りに戻ることにした。今私たち二人がこの世で一番強く求めているものは、愛でも巨万の富でもなく、何物にも邪魔されないただひたすら穏やかな安眠だった。

この夜は永遠に明けないかと思った。「明けない夜はない」などというが、この晩に限っては永遠に明けないような気がした。再びベッドについた私がやっと安心できたのは、無事に新しい一日を迎えることができたと知った翌朝になってからの事だった。


******


ここからが長い戦いだった。

ドアの修理にここまで手こずることになるとは、さすがに予想できていなかった。

保険会社が手配してきた鍵屋には、修理の約束を3回すっぽかされた。3回目のすっぽかしを食らった後、しびれを切らして鍵屋の携帯電話に電話を入れた。すると担当者の旦那を名乗る男性が出てきて、「妻は今バカンスに出ている」と告げられた。フランスの厳密な階級社会の頂点に君臨するのは、白人男性でもなく元貴族階級でもなく、バカンスであることをこれでもかというほど思い知らされた。

大家に相談し、大家の知り合いの鍵屋に修理を依頼することにした。すると以前の鍵屋から、「材料費」という名目で金銭を要求されるはめになった。しかしそんなことにひるんでいる私ではもうなかった。彼ら要求をかたくなにはね退け、びた一文支払わない姿勢を貫いた結果、彼らはいつしか姿を消していった。

さらに、予想通りというべきか、保険会社からは保険金の支払いを渋られた。しかしそこは郷に入れば郷に従えの精神である。フランス人がするように、しつこく冷静に自らの主張を押し通した結果、無事保険金は振り込まれた。しかしそれには実に4ヶ月もの時間を要した。

これら一連の騒動が悪化の一途をたどっていた時、シャルルドゴール空港の保安検査ゲートをくぐり抜けたタイミングでかかってきた大家からの電話を慌てて取ったことがあった。不審人物と勘違いされ、空港職員に連行されかけるという憂き目にも遭った。

ドアが壊れていたこととの因果関係は分からないが、いつしか私の部屋には新たな同居人が加わっていた。その小さな同居人は、夜になるとどこからともなく帰宅の足音をしのばせた。勘のいい方なら誰だかお分かりになるかもしれない。または、フランス在住経験のある方もピンとくるかもしれない。そう、日本だと千葉の浦安あたりに小さな王国を作り上げている、あの人気者だ。

彼の存在を最初に察知したとき、私の全身の毛という毛が逆立った。「身の毛がよだつ」とはまさにこのことかと思った。しかし慣れというのは恐ろしいものである。次第にそんな奇妙な同居生活にも慣れていった。人間、雨風さえしのげれば、大抵の状況には適応していけるものだ。むしろ彼がいることによって、一連の事件のゴタゴタを一瞬でも忘れることができたのは有難いことですらあった。彼の不在は、むしろ私の孤独を際立せた。歯には歯をというように、恐怖には別の種類の恐怖をもって制するというやり方があるのだ。だいいちネズミの恐怖なんて、人間の恐ろしさに比べたら可愛いものである。前述したとおり、この世で最も恐るべき存在は、人間そのものなのである。

鼠が友人だなんて、まるで村上春樹の小説みたいじゃないか。最終的にはそんな型破りなロジックで自分を納得させるようになっていた。唯一の大きな違いは、こちらが正真正銘のネズミを相手にしているということだったが、そんなことはもはやどうでもよかった。

こんなこともあった。ある日帰宅してポストを開けると、いくつかのチラシの中に混じって、ひときわカラフルなポストカードが投函されていた。拾い上げてみると、それは日本にも存在するとある宗教団体の案内ハガキだった。

よりによってこんなタイミングで。

ふと笑いが込み上げてきた。まるで私の一連の災難を、どこからかつぶさに観察しているかのようだ。ポストカードをゴミ箱に放りかけた瞬間、私の背筋は凍った。もう一度カードの文面に目を凝らした。

フランス語のチラシの中に混じって投函されていたその宗教団体からのポストカードは、唯一、日本語によって書かれていたのだった。


そんな副次的な災難もありつつ、ついにドアの修理が終わり、保険金も無事支払われた。全てが収束するころには、二つの季節が終わりを告げようとしていた。もはや帰国の日が近づいていた。前途多難な日々を乗り越え、無事に帰国の途に就けることは、まるで奇跡のように思われた。どんよりと灰色に曇ったパリの街並みは、もうそこにはなかった。私の目の前にあるのは、今や夏の青空と、それを背景にそびえ立つサクレ・クール大聖堂の真っ白な輝きであった。



******



そして今、私の手元にはあの事情聴取書がある。

事件以来一度も読み返すことのないまま、心にふたをするように封印していたその調書を、私は紐解いてみる。記憶をたどるように、一つ一つの文章を追いはじめると、すぐにあることに気付きふっと笑みがこぼれた。当時相当拙かったはずの私のフランス語は、キアヌ・リーヴスの手によって見事に美しいフランス語へと書き換えられていた。このままサスペンスドラマの台本として制作会社に持ち込んでもいいような内容だった。時を超え、改めて私はキアヌ・リーヴスに深く感謝した。

今、私は生きている。東京の街で、平凡ながらも幸せに暮らしている。調書を読み終え、書類をぱたっと膝元におろした瞬間、そのことが奇跡のように思えた。


前を向こう。


そう思った直後、あることに思いが至り、私は改めて調書の文字をざっと追い返した。その箇所を見つけて、私は微笑んだ。

取り調べの中であれほど苦労したはずの「午後一時」という単語だが、調書の中の私は、それをすんなりと軽やかに口にしていた。さらに、ドラゴンボールやNARUTOのくだりも、全てきれいさっぱり省略されていた。

「ハハハハ……」

思いがけず、笑い声が漏れた。



私は窓の外に広がる青空を静かに見上げた。




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