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本音と建前

最近ハッとしたことがあります。

それは職場でのできごと。

接客業をしているのですが、ある日お客様と職場の人(Aさんとします)との間でトラブルになってしまいました。

事の発端は、Aさんの淡々とした対応に、お客様が不満をもったことから。

当時私はお休みで、その場にはいなかったのですが、
お店中に響き渡る怒号でお怒りだったようです。

そして数日後、そのお客様が再度来られたとき、
普段はユーモアたっぷりなAさんが、ものすごくシュン・・・として落ち込んでいました。

傍にいた私は、この状況でいつもはそんなこと言わないのですが、
Aさんの普段の様子を考えて、いつもの調子を取り戻してほしくて
ユーモアを3%くらい入れた、ちょっと踏み込んだ言葉を選んでかけたのです。

その言葉に対してAさんは特に反応はなく、お客さんとのやりとりを反芻しているのか、うーん・・とそのままうな垂れていました。

そして後日。

全く別のBさんから突如、あの時の言葉を指摘されました。

当時の会話は、まちがいなく私とAさんとのやりとりだったのですが、
仕切りの向こうにBさんがいたんですね。

そのときに感じたのは、自分の想いとは別の角度から指摘されたことへの理不尽さ(そんなこと全然思ってないのに、なんでそう言われる??)、単純に言葉への怒り(そんな言い方ある??)、

そして、そう受け取られかねない言葉を選んでしまった自分の至らなさ。


いつもなら棘のある言葉は、そのまま受けとるのではなく、頭のなかでそれを網でふるいにかけるようにうらごしして、自分の言葉にマイルドに変換するように心がけてはいるのですが、

今回は予想外のところからやられてしまったので、
こちらも感情的になってしまいました・・



本音と建前って、私と相手とのなかで、本心を打ち明けたり、相手の気を悪くしないように配慮して言葉を選んだりすることだとは思うのですが、

今回感じたのは、相手と私だけがいるプライベートな空間と、周りに人がいるパブリックな空間では、目の前にいる人にかける言葉を考えることも必要だということ。

あらゆる状況に対する視野が、今回は少し狭かったな、欠けていたなと反省しました。

だからって、私は人と話すときは建前で話します、という訳ではなく。
パブリックにはパブリックの色があって、そこを理解して言葉を選ぶことで、その空間での繋がりを保つことができると思うのです。

そして、1対1となったときに本音で深く語らえたらいいのかなと思います。

だからこそ、今回のことがきっかけで、プライベートな空間で、相手との1対1の深い関係性をもっと大切にしようと改めて気づかされました。

1対1でなくても、同志とか共通の趣味の少人数のグループでもいいですね。そうしたお互いのことを認め合って理解してくれる人たちとの会話は、本心を開いて言葉を交わそうと思えました。



本音or建前。そして、プライベートorパブリック。
このnoteというプラットフォームはどっちなのでしょうね。

本音を丁寧に丁寧にゆっくりと時間をかけてうらごししたものが、パブリックにさらされる。

そんな感じでしょうか。

それがどう受け取られるか、
今回のように、もしかしたら失敗することもあるかもしれないけれど。

丁寧に丁寧に、言葉を紡いで、自分の想いを伝える

それが文章を書くものにとってのデトックス、癒し、楽しみであり、
私にとってはパブリックとの向き合い方に対する試み、挑戦でもあるなと感じました。

今回はそんなことを思い、たまらなくなってnoteに書きました(笑)

*後日Aさんに失礼な言葉だったか聞いてみたのですが、「え?そうはお思わなかったよ」と言ってもらえたので、よかった^^



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