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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #13

)クジラリンク(マリンスノー


13. サボタージュ


 三年に進級して、シンの教室は北棟校舎の二階から三階になった。一年の頃から二十五人学級の二クラスで、クラス替えがあってもなくても同級生はみんな友達だったが、この春からその中に加わった転校生の波留、彼女だけが教室で浮いている。
 
 いじめられているわけでもなく、話しかけたそうに彼女の顔をうかがうクラスメイトから目をそらし、波留はいつも人のいない場所を見ていた。休憩のたびにさっさと教室を出て行くのも相変わらず。そんな彼女が初めて授業をサボったのは始業式から一週間ほどたった火曜日の午後だった。

 さっさと給食を済ませた波留はいつも通り自分の席のすぐそばにあるドアを開けて姿を消し、女子二人がその後を追うのをシンは教室の一番後ろの席から目の端にとらえた。雰囲気から推察するに二人の女子は波留と仲良くなりたかったのだろうが、午後の授業が始まってその子たちが戻って来ても波留の姿は教室になかった。

「伊足さんがいないみたいだけど、誰か知ってる人」

 男性の国語教師が生徒に向かって聞くと、女子二人は離れた席同士で顔を見合わせ、前から二列目の席に座っていた方がおずおずと手をあげた。

「さっきまで廊下で話してたんですけど……」

「それで、伊足さんは?」

「トイレに行くって」

「倒れてないか見てきてやれ」

 教師が言うと、その女子はもうひとりの女子と連れ立って教室を出ていき、二、三分ほど経って「見つかりませんでした」と心配そうな顔で報告した。国語教師は自習するよう言ってどこかへ行き、戻ってくると「伊足さんは体調を崩して保健室にいます」と一言口にして授業を始めた。

 シンが波留本人から金魚部屋にいたのだと聞かされたのは、放課後になって金魚の餌やりに行ったときだ。波留は廊下から死角になる場所に椅子と机を移動して絵を描いていた。

「先生は保健室にいるって言ってたのに」

 シンが言うと、波留は「その方が都合が良かったんじゃないの」と皮肉めいた言い方をした。

「波留、体調は良くなった?」

「体調もなにもただのサボりだから。でも、やっぱり人といるのは疲れる」
 
 女子たちともめたりした様子はなかったけれど、波留はそう言ったあと珍しく取り繕うような笑みを浮かべた。

「ねえ、シン。もし僕がこの部屋に出入りしてなかったら、シンは餌やりに誰か連れて来てた?」

 話しながら波留はスケッチブックの上に鉛筆を走らせている。

「どうだろ。考えたことないし、去年も一人で来てたから」

「去年の金魚係は海斗じゃないの?」

「海斗が卒業してからちょっとの間、俺が餌やりしてたんだ。卒業生のくせに海斗も毎日顔出してたんだけど」

 へえ、と何か思案しているふうな波留の横顔をながめながら、シンは自分が無意識にこの教室からクラスメイトを遠ざけようとしていたことに気づいた。

 学校生活は楽しいけれど、海斗やCONAコナの人たちとの付き合いに比べると表面的に合わせることもあり、シンはその二つの人間関係のあいだになんとなく線引きをしている。金魚部屋は学校の中にあるにも関わらず、同級生をここに入れたくないと思うのは海斗と森谷と三人で過ごした場所だからだ。シンのクラスメイトは金魚の餌やりのことも知らない。

「やっぱり、波留がいなくても一人で餌やりに来たかも」

 シンが言うと、波留はその言葉の真偽を確かめるようにじっと彼の顔を見つめた。もしシンが「友達を連れて来てたかも」と反対のことを言っていたとしたら、きっと彼女は金魚部屋に来なくなる。

「シン、友達いないの?」

「いるよ」

「だよね」と、波留はどこか含みのある笑みをシンに向けた。まるで、お前の考えていることなど全部お見通しだと言われているようで、もしそうなら波留はもうここに来ないのではとシンは焦りを覚える。

「あのっ、あのさ、この金魚たちは波留が転校してくるの待ってた気がする」

 恥ずかしさに堪えてクサい台詞を口にすると、波留は「へんなの」と素っ気なく顔をそむけたけれど表情はまんざらでもなさそうで、シンは内心ほっと息をついた。

 波留が金魚部屋に来なくなったら困る。始業式の日に金魚部屋に入ろうとしている波留を目にした時から、この場所はそれまでとは違う意味で特別なものになる予感がしていたし、実際にそうなった。金魚部屋は、波留のための部屋だ。


 この日以降、彼女が午後の授業に姿を見せないとき「伊足さんは保健室で休んでます」と、どの先生も説明したけれど、クラスの中でシンだけがその言葉が嘘だと知っていた。「いちおう他の生徒には内緒ね」とシンに口止めしたのは森谷。クラスに馴染まない波留を森谷は心配していたけれど、保健室だろうが金魚部屋だろうが不登校になるよりはマシという判断のようだった。

 シンはクラスメイトに見つからないよう遠回りして金魚部屋に顔を出し、波留は「お疲れ」と学校自体が他人事であるかのように絵を描き続ける。帰れと言われることはなかったけれど、気が乗らなければ話しかけても相槌しか返って来ないし、シンも適当なところで声をかけて金魚部屋から引き揚げた。金魚部屋では波留の時間が流れていて、それを乱してはいけないような気がした。

 気が付けばそれが日常になって、森谷はたまに顔を出しては波留がサボった授業の連絡事項を伝えたが、シンが二人の会話を聞いている限り、波留は教室で授業を受けるよりも早いペースで勉強を進めているようだった。

 森谷と波留の間では時々高校受験のことが話題に出る。波留はすでに志望校を決めているらしく、そういう話になるとシンは居心地が悪くなって「先に帰る」と金魚部屋を出た。波留がシンより先に帰ることはなかった。

 日が経つと波留は午後だけでなく午前の授業も抜けるようになり、金魚部屋ではなく先生たちの言う通りに保健室で寝ていることもあるようだった。

 このまま友達をつくることなく中学を卒業してしまうのだろうか。体は大丈夫なのか。物足りなさと心配とが膨らんで、空席になった廊下側の一番前の席を見るたびシンの口からはため息が漏れた。その不安を和らげるために金魚部屋に欠かさず顔を出し、波留と途切れ途切れの会話をする。


 ゴールデンウィークが間近に迫ったある日、帰りにシンが金魚部屋に寄るとそこに波留の姿はなかった。この日彼女がいなくなったのは給食の後、先生は「保健室に行っている」といつも通りの説明していた。

 トイレに行っているのかもしれないとしばらく待ってみたけれど、五分経っても十分経っても波留は現れず、エアポンプの音が響くばかりの金魚部屋を出てシンは教室に戻った。ドアを開けてすぐ目の前の波留の机にはあるべきはずの青いリュックがかかっておらず、どうやら知らないうちに早退していたらしい。

 誰もいないことを確認して波留の席に腰を下ろすと、シンはその場所からぐるりと教室を見回した。普通に座っているだけなら二列目より後ろの席はまったく視界に入らず、それに加えて波留は教師にすら目を向けずドアのガラス窓をながめていることが多い。波留にとって教室はこんなにも狭い世界なのだ。

 一度だけ、波留が後ろを振り返ったことがある。その時、シンは微睡みの海の中で波留と目を合わせたが、波留はあれ以来かたくなに後ろを振り向こうとしない。


次回/14.線引き

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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