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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #14

クジラリンク(ターコイズブルー)


14. 線引き


 シンが波留の席で頬杖をついてぼんやりドアのガラス窓をながめていると、森谷がヒョコッと顔を出した。慌てて席を立ったけれど、森谷は弱みを握ったような嫌らしい笑みを浮かべてドアを開ける。

「シン君、まだ帰ってなかったんだ。波留さんなら五時間目で帰ったよ。家の用事だって」

「いや、俺は別に」

「そう? 三組にいなかったから心配になったんでしょ」

「まあ、ちょっとは」

 やっぱり、と笑った森谷はすぐにその笑みを引っ込め、「難しいなぁ」とため息をついて窓の方へ歩いていく。

「難しいって、波留のこと?」

「波留さんっていうか、地域格差をひしひし感じてるところ。シン君、うちの学校ってオンラインで授業受けたいって言ったら受けられるって知ってた?」

「うん。二年のとき骨折で入院した友達がオンラインで受けてた」

「怪我や病気じゃなくて、ただオンラインがいいからっていう理由でもOKなのは知ってる?」

「そうなんですか?」

「一人で勉強するほうが集中できるとか、自分のペースで進められるとか、色々メリットも多いのよね」

「俺はほとんど受けたことないからピンと来ない」

「そうなのよね。教室でみんな一緒に受けるっていうのがここらへんでは当たり前になってるんだけど、都市部ではオンライン利用率も高くて、波留さんも中二の途中からずっと利用してたみたい」

「学校、嫌いなのかな」

 そこが分かんないのよねえ、と森谷は悩ましげに小首をかしげた。ツバメが二羽、窓の外を過り、そのずっと向こうに見える海は凪いで、青い空よりももっと深い色をしている。

「オンラインなら家でも受けられるのに、波留さんはほとんど毎日六時過ぎくらいまで学校にいる。もしかしたら家に帰りたくない理由でもあるのかな。シン君、何か聞いてない?」

「俺?」

 森谷に話さないことを俺に話すだろうかと思いつつも、シンは波留とのこれまでのやりとりを振り返ってみた。

 波留のことを考えて最初に頭に浮かぶのは彼女の後ろ姿だ。短いショートカットの黒髪で、少し立ち気味の耳。教室の一番前の席に座る波留も、金魚部屋で絵を描く波留も、いつもここではないどこかを見つめている。

「先生、波留の死んだ母親のこと、聞いた?」

 躊躇いながら口にすると、森谷は「ほえ」と変な声を出して意外そうにシンの顔を見た。

「ごめんなさい、やっぱなんでもないです」

 シンが慌てて取り消すと、森谷は一転して顔をほころばせる。

「大丈夫。私も知ってた。波留さんがシン君に話してることに驚いただけ」

 そっか、と森谷は一人納得して嬉しそうにうなずいているけれど、シンは急に恥ずかしくなってコホンと咳払いした。

「別に、俺を信頼して話したわけじゃないと思う。何て言うか、線引かれた気がした」

「線?」

「うん。どうせ俺には分からないだろって、言われた気がしたんだ。その話題に触れていいのか、触れない方がいいのかも分からない。波留には聞きたいことがいっぱいあるのに、聞くのが怖いからいつもどうでもいい話しかできない。どんな言い方しても、波留を傷つけそうだから」

 うんうん、とうなずく森谷も、自分と同じように感じているのだとシンは思う。

「海斗なら、母親二人ってどんな感じ、とか聞いちゃうんだろうな。海斗のそういうとこ羨ましい」

 シンがぼやくと、森谷はアハハと笑い声を弾けさせた。

「海斗君は思ったことがすぐ口に出るもんね。ほんと羨ましい。でも、波留さんの場合はちょっと心配だなあ。シン君なら安心なんだけど」

「海斗だと何かマズいの?」

「波留さんって、こっちが急に距離詰めたら閉じちゃいそうな気がしない? 貝みたいに。シン君もそう思うから色々聞きたいこと聞かないんでしょ」

 シンがうなずくと、森谷は彼の背をポンと叩く。シンは波留と海斗のことが気になり、黒板の上にあるアナログ時計を確認した。海斗はまだ帰っていないかもしれないけれど、CONAに寄って釘を刺しておかなければいけない。

「俺、そろそろ帰ります」

 シンの頭の中はすでにCONAに行くことでいっぱいだった。動きかけていた足が、森谷の「ねえ」という声で止まる。

「シン君。波留さんに一番聞きたいことって何?」

 即座に浮かんだ疑問があった。――波留が好きになるのは男なのか、女なのか。同時に想像したのが「男だろうが女だろうが人間は嫌い」と素っ気なく答える波留の姿だった。

「一番聞きたいことって言われても分かんないけど、例えば、波留が自分のこと僕って言う理由とか、かな」

「あ、その答え先生知ってる。でも教えてあげない。シン君が自分で波留さんに聞いて」

「それって聞いていいやつ?」

「いいと思うよ」

 ふふ、と森谷は少女みたいに笑った。海斗がいた時はよくこんな顔をして笑っていたけれど、それが教室の外で見せる顔だと知ったのは彼女が自分の担任になってからだ。

 二年の時は美術の授業でしか関わることのなかった森谷だが、海斗が卒業してから終業式の日までシンは新しい金魚係として三年三組に出向き、海斗もシンの授業が終わる時刻にあわせて顔を出し、森谷もそれを知っているから金魚部屋に姿を見せた。一緒に過ごすうちに海斗の口調がうつり、担任だと分かっていてもつい気安い口をきいてしまう。

 シンは密かに海斗が高校になっても餌やりに来るんじゃないかと思っていたけれど、シンが春休みに入った途端「けじめだから」と言って母校に近づこうとしなくなった。当たり前と言えば当たり前なのだが、海斗と森谷のやりとりを見ていたシンには少し意外だった。

「今日は凪いでるね」

 森谷は海を見ていた。

「先生、たまにはCONAに顔出したら? 海斗、喜ぶよ」

「中学の担任が押しかけて喜ぶ生徒なんていないでしょ。先生、運動音痴だからサーフィンなんてできないし」

「カフェでお茶するだけでもいいじゃん」

「そうねえ」

 森谷はため息をごまかすようにゆっくり息を吐いた。

「先生ね、三年生の担任になったのは去年が初めてだったんだ。子離れする親ってこんな心境なのかなって思った。みんなが成長していくのはうれしいんだけど、先生だけ置いてきぼりにされちゃった気分」

 海を見つめたまま、森谷は寂しげな笑みを口元に浮かべた。


次回/15.隣の庭

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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