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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #10

クジラリンク(ターコイズブルー)


10. 微睡の海


 坂道を自転車で下って路地を抜けたシンは、しばらく線路沿いに走って海岸道路へと続く道にハンドルを切った。無意識にペダルを踏む足に力がこもる。家を出てからずっと考えているのは波留のことだ。

 波留は金魚部屋にいるだろうか。もしいたなら何を話そう。

 緊張を胸に金魚部屋のドアを開けたけれど彼の淡い期待は外れ、ホームルームが始まるまで待っても波留が餌やりに来ることはなかった。教室に戻ってみても彼女の席は空いたまま、ようやく顔を見せたのはホームルームが終わって森谷が教室を出ようとした時だ。

「ホームルームがあるの忘れてました。出なきゃ行けませんか?」

 波留は悪びれることもなく言って森谷を困惑させ、クラスメイトと会話を交わすこともなく一時間目の授業が始まった。

 シンがいきなり「波留」と声をかけたら教室中の注目を集めることは間違いなかった。そうなると、波留は嫌そうに眉をしかめて教室を出ていってしまいそうで、シンはさりげなく話しかけるタイミングを探したけれど、彼女は休憩になるたび教室からいなくなり、授業開始ピッタリか少し遅れて戻ってくる。波留のまわりのクラスメイトも彼女を気にしていたようだが、見ている限り誰とも会話らしい会話はしていなかった。

 前の学校で不登校だったというから同級生とは関わりたくないのかもしれない。ただ、波留の姿からはイジメを受けていたような印象は受けなかった。おどおどしていることもなく、驚くほどマイペースだ。

 なんとなく怖気づいてしまったシンは、最大のチャンスである給食の時間ですら彼女に近づくことができなかった。

 帰りの餌やりにも来ないかもしれない。眠気の襲う午後の授業中に、シンはぼんやりそう思った。一番後ろの席は居眠りするのにちょうど良く、目を半開きにしたまま頬杖をついていると、黒板の文字がグニャリと曲がる。クラスメイトも先生の姿もユラリユラリと不規則に揺れ、ターコイズブルーの海の中で何人か眠そうに船を漕いでいる。

 眠りに落ちる間際の微睡みに、シンはよく海を見る。青い海と現実の景色とが重なり合い、夢との境目が失われる。誰にも話したことはないが、シンはこれを「微睡みの海」と名づけていた。

 ねえ、帰りの餌やりも波留は来ないかな。

 いつもするように心の中で海に問いかけ、光の揺らぎで「さあね」と答えが返って来たような気がする。ただの自問自答に過ぎないと分かっているけれど、シンにとっては特別な時間だった。海の中で、波留も眠そうに頬杖をついて授業を受けている。

 どうして波留のことが気になるんだろう。

 シンの心の声が聞こえたようにタイミングよく波留が後ろを振り返り、目が合うと彼女は慌てて前を向いた。シンの心臓はドクンと大きな音をたて、眠気がすっかり吹き飛ぶと微睡みの海も消え、教室はいつもの風景に戻ってしまう。授業に集中することができず、シンはそれからずっと波留の後ろ姿をながめていた。

 そんなことがあって、シンはわずかな期待を胸に金魚部屋で波留を待つことにした。

 金魚部屋の、離れ小島のように置かれた机とそれを囲む三つの椅子。そのうちのひとつに座り、何気なく机に手を突っ込むと紙の手触りがあった。森谷がスケッチブックを置いていったのを思い出し、一冊取り出して表紙をめくってみると昨日見た鼻血の男が現れる。二枚目は脇毛がボーボーの男、三枚目は耳毛の女、その次は何も描かれていなかった。

「もったいね」

 ほとんど使われることなく、せっかく描いたものも落書きされて美術室に置き去りにされたスケッチブック。何年前の生徒が描いたものか分からないが、改めて表紙をながめるとずいぶん色褪せていた。白紙のページをパラパラめくっていくと真ん中あたりに黒いものが見え、広げてみると金魚鉢の絵が描かれている。

 鉛筆で描かれた金魚鉢には二匹の金魚が泳ぎ、そのうち一匹は出目金だった。エアポンプの形や水草の配置を見ても後ろの棚にある金魚鉢で間違いないが、ほとんどアウトラインだけで、出目金だけが陰影をつけて描き込まれている。絵の中の出目金はまっすぐこっちを向いて、不思議そうに頭を傾けていた。そこだけ際立って立体感があるせいか、出目金が金魚鉢の外を泳いでいるように見える。

 絵を描いたのは波留に違いなかった。休憩のたびに金魚部屋に来て、この絵を描いていたのだ。

「出目ちゃんは人気者だな」

 森谷は出目金をかわいがっているし、絵を見る限り波留もそうらしい。赤い金魚にいじめられる出目金に情が移ったのかもしれない。

「やっぱり波留もいじめられてたのかな」

 シンはスケッチブックを手に金魚鉢をのぞき込み、実際の出目金と絵の中の出目金を見比べてみた。

「出目ちゃん、水草の中にいないで出て来てよ。なあ」

 森谷が来るとすぐに反応する出目金は、シンのことは知らんふりだ。

「出目ちゃあん」

 森谷の声色を真似て裏声で呼びかけたとき、カタと物音がした。見ると波留がドアのところに立っていて、シンは恥ずかしさで口元をひきつらせながら「餌、やる?」と彼女に聞いた。

 波留は立ち尽くしたまま、何を言うべきか考えているようだった。パチャン、と水の音がして金魚鉢の方を向き、その視線はすぐまたシンに戻ってくる。シンは手に持ったスケッチブックのことを思い出した。

「これ描いたの、波留?」

「まあ、そう」波留は目を合わせず曖昧にうなずいた。

「この絵、出目金が宙に浮いてるみたいに見える。描きかけだからかもしんないけど、なんか不思議」

 シンは取り繕うように早口で言うと波留のそばに寄ってスケッチブックを渡し、彼女は素直に受け取ったけれど、シンの脇をすり抜けてすぐに机の中に入れてしまう。

「シン、餌やり?」

「うん。でもまだやってない。波留、やっていいよ」

 波留は一瞬怪訝な顔をし、そのあと何も言わず餌の袋を取ってパラパラと金魚鉢に撒いた。シンはいざ波留を目の前にすると聞きたいことが口にできず、空回りする頭で次に何を喋るか考える。波留はじっと金魚鉢をのぞき込んでいる。 

「シンは家を継ぐの?」

 思いがけない言葉にシンの声が「えっ」と裏返った。

「海斗って人が言ってた。シンはシェ・マキムラの息子で、将来はシェフになるんだって」

「なんでそんな話」

 海斗がまた余計なことをと思いながらシンが問うと、波留は海斗との会話を思い返そうとしているのか天井を見上げて視線を泳がせた。

「さあ、なんでかな。うち、あの人の家の隣なんだ。僕がこの中学の三年だって言ったら、シンのことペラペラ喋りはじめた。何かあったらシンを頼れって」

 波留はチラッとシンを見た。頼っても大丈夫なのか、と疑われているのか、頼るつもりはないけど、と思われているのか。まだ信頼されていないのが波留の眼差しから伝わってくる。

「別に、店を継ぐって決めたわけじゃないよ」

 シンが言うと、波留は「ふうん」と興味なさそうに金魚たちに視線を戻した。わざわざ波留に弁解じみたことを言う必要はなかったと後悔しながら、シンの脳裏には二年の終わりにあった三者面談の光景がよみがえる。

 ――この子の父親はあまり口にしないんですけど、継いでほしいと思ってるはずなんです。まあ、この子次第なので押し付けるわけにもいかないんですけど。

 ――シンさんは将来どうしたいか考えてるの? お父様のお店のことも含めて。

 ――俺は、……

 ――まだ十四歳だから、そんな急いで決める必要なんてないわよ。お父さんもまだまだ現役でバリバリ働きたいんだから。

 ――そうですね。ただまあ、高校の調理学科や栄養学科は近くにないので、もしそういったところを志望するなら早めに決めた方がいいかもしれません。

 ――高校出てからでも料理の勉強はできますし、それに、そういった学校に行かなくても料理はできますから。この子がその気になったときに一緒に考えていきたいと思ってるんですけど。

 料理人になるルートはいくらでもあるから、そこから外れなければいい。シンは母親にそう言われた気がした。この子次第だと言いながら、母親の言葉から透けて見えるのは店を継ぐことへの期待ばかりだった。

 小学生の頃は「コックさんになる!」と得意になって母を喜ばせていたけれど、いつまでもそれが続くわけはない。決めつけられることへの反発と、期待を裏切ることへの罪悪感で、シンは自分がどうしたいのか分からなくなっている。

「子どもを巻き込まないで勝手にやればいいのにね」

 ポツリと波留が言った。彼女はシンと目を合わせて共犯者めいた笑みを浮かべる。

「僕の親も商売はじめる予定なんだ。ヨガスクール。どっか別のとこでやってくれたらいいのに、家でやるんだって」

「ヨガ? 両親ともヨガやってんの?」

「うちは母親ひとりだけしかいない」

 シンは一瞬言葉を失い、そのあと「そっか」と漏らした。バツの悪さを覚えたときシンは次の言葉をなかなか見つけられず、夜眠る前に微睡みの海に向かって愚痴をこぼす。そうやって自分の未熟さを飲み込んでいく。

 波留は近くにあった椅子に腰を下ろし、机に頬杖をついて窓の外に目をやった。

「父親はいない。同性同士の結婚で母親が二人いたんだけど、一人は僕が小学五年のときに死んだ」

 シンの口からはやはり「そっか」としか出てこなかった。

 

次回/11.四次元散歩

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022


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