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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #11

)クジラリンク(マリンスノー

11. 四次元散歩


 ひとり金魚部屋に残った波留は、金魚鉢の傍にある一番後ろの窓を開けて身を乗り出した。校舎とグラウンドの間の坂道をぞろぞろと生徒たちが下っていき、ジャージ姿でグラウンドへ駆けて行くのは地区のサッカーサークルだ。グラウンドの隣に屋根だけの駐輪場があり、校舎の陰から姿を見せたシンは端に置かれた自転車に跨がって一気に坂道を下っていった。

 夜次元クジラの鳴き声が聞こえる。顔をあげるとボウリング玉のような漆黒の瞳に波留の姿が上下左右逆さまに映っていた。校舎の端から端までありそうな巨躯、その体を通して見える景色は青みがかった色をして、夜次元クジラがクククと鳴くと水平線がそれに合わせて細かくビリビリと震える。

「期待したのか」と夜次元クジラが言った。

「期待? まさか。何を期待するの?」

「遠ざけたのか」

「どうでもいいよ。どうせじきに学校には来なくなるんだ」

 波留が右手を伸ばすと夜次元クジラはわずかに口を開けてその手を咥え、クジラの内側に入った腕は死人のような青さになる。損壊が激しいからと遺体を見ることもかなわなかったのに、頭の中に留里の死に顔がはっきりと浮かび、波留は反対の手で胸元のペンダントを握りしめた。

「行くのか」

 夜次元クジラは巨体をしならせて波留と真正面から向き合い、波留は教室を振り返って誰もいないことを確認した。

「心配しなくても戻るのはこの座標だ」

 夜次元クジラはおもむろに口を開け、ブラックホールのような深い闇が波留を覆い尽くし、どこからか汽笛のような鳴き声が聞こえてくる。声は闇が薄らぐとともに遠ざかり、じきに景色はマーブル模様になって、その模様は少しずつ意味のある形をとり始めた。



 パチャンと水の跳ねる音がする。

 波留は降りしきる雨の中、傘をさして立ち尽くしていた。隣に骨壷を抱いた那波と、その那波に傘をさしかけているのは叔父。目の前には波留がたった一度だけ会ったことのある留里の母親が立っていたが、波留がその人を祖母だと思ったことはない。

 これは留里の葬式だ。

 留里の母親の顔を波留は覚えていなかった。なぜなら、たった一度だけ彼女の前に立ったこの葬式で、波留はその女性の靴だけをじっと睨みつけていたからだ。黒くて、のっぺりして、泥のこびりついた靴。それがいま目の前にある。那波がその女性に頭を下げ、申し訳ありません、と言った。

「留理の遺骨は手元に置かせてください。波留を手離す気もありません。波留は留里と私の子どもです」

 那波の言葉を無視して女性は波留の顔をのぞき込もうとし、波留は頑なにその視線を避けて靴だけを睨んだ。

「波留ちゃん。うちの子にならない? 留里の生まれた家で一緒に暮らさない? 女の子なのに葬式に半ズボン履かせるなんて酷い親ね」

「うるさい、ババア。お前なんか他人だ」波留の口が勝手に動いた。

 女性は「このっ」と手を振り上げ、けれど、いつまで待っても波留の頬が打たれることはなかった。

「他人で結構」女性がそう吐き捨てて背を向けた時だった。ズン、と地面が揺れ、どよめきが雨音をかき消した。 

「余震だ!」

 周りの木々が梢をバサバサと揺らし、波留は立っていられずその場にしゃがみこんだ。那波は骨壷を膝に抱え、左手で波留を抱き寄せる。揺れは次第におさまり、「大丈夫か」と叔父の声がした。

 女物の汚れた靴が水たまりを踏み、パチャンと水の音がする。波紋が女性の姿をゆがめ、叔父も那波も波紋に飲まれ、景色はマーブル模様になり、ふたたび闇に包まれた。

「怖いのか」夜次元クジラが言った。

「僕が何を怖がるの?」

 夜次元クジラの瞳に、波留の姿が上下逆さまに映っている。潮を吹いて体を小さくした夜次元クジラは、体長一メートルほどの抱き枕サイズになると波留の頭の上を泳いで教室に入って来た。出目金がその夜次元クジラの姿を目で追っている。

 波留はめまいを覚えて椅子に腰を下ろした。四次元散歩のあとは疲労感と浮遊感が体に残り、無重力の宇宙から地球に帰ってきたらこんな感じだろうかと波留はいつも考える。本当にブラックホールに行って戻って来たのだと言われても信じられそうだった。

「死んだ母親に会うのが怖いか?」

 夜次元クジラは悠々と教室を泳ぎ、天井近くから波留を見下ろした。

「まさか。留理ママに会いたくないわけない」

「なら、どうして死人にばかり会いに行く?」

「夜次元クジラが連れてってくれないから」

「会おうと思えばいつでも会える。時間の隔たりも空間の隔たりもない。心の隔たりがあるだけだ。三次元から抜け出すのはたやすい」

 夜次元クジラは波留と違って時間からも空間からも重力からも解放されている。

 夜次元クジラが尾ビレで金魚鉢をなでると、出目金が誘われるように金魚鉢をすり抜けてその尾ビレを追いかけた。ふと何かに気づいたように進路を変えた出目金の視線の先、ドアのガラス窓にヒョコリと森谷が顔を出した。


次回/12.去年の金魚係

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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